2012年10月16日火曜日

映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その3)



女が階段を上る時(成瀬巳喜男)


成瀬巳喜男は、自立を目指して働く女性たちを、自らのフィルムに目立つほどに多く刻んだ映画作家だった。中でも、私にとって最も印象深いのは、「あらくれ」と、本作の「女が階段を上る時」である。共に、主演は高峰秀子。言わずと知れた、成瀬作品の看板女優である。

 その高峰は成瀬作品に17作も出演していながら、「稲妻」や「流れる」のような、単にしっかりしているだけの平凡な役柄を気に入ることなく、寧ろ「あらく れ」のような、極めて個性的で自我の強い女性の役に対して、深い思い入れを持っていたことは知られていることである。(キネマ旬報2005年9月上旬号『高峰秀子独占インタビュー』より)

 ついで言えば、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」での、献身的な聖母のような役柄に満足していなかったことなどを想起するとき、その辺りに高峰秀子という稀有な女優のプロ根性の凄みが垣間見えて、とても興味深い。

 「女が階段を上る時」における雇われマダムの役も、高峰秀子のプロ根性が随所に見られる嵌り役と言っていい。「流れる」の娘役なら、香川京子でも難無く熟(こな)したに違いないが、本作の圭子役は、高峰秀子以外の誰が演じることができたであろうか。

 圭子のキャラクターの役どころは、観る者が考えている以上に難しい表現力を必要とする。なぜなら彼女は、男を魅了する美しさと、それを安手のセールスで営業しない人間としての誇り、更に苦境の中で実家をサポートする生活力に加えて、何よりも、夜の世界で淘汰される多くの女たちの中にあって、男に対して安直に屈しない程の「女の意地」を、そのトータルな人格表現によって鮮明に映像化されねばならなかったからである。

 この作品の秀逸さは、夜の世界に生きる女たちのその生きざまのリアリティの凄さと、そのような生き方を選択せざるを得なかった女たちの、それぞれが抱えた事情の厳しさを、そこに余分な感傷を排して描き切ったという点に尽きる。

そこで演じられる世界は、階段を上り切ったその先の空間にある。彼女はそこで己を捨てて、「マダム」という記号を完璧に演じ切らねばならなかった。

 しかし彼女にとって、「マダム」という記号を演じることは、必ずしも、男たちの消費の対象としての「女」を晒すことではない。「女」を晒すことで生計の資を得ている女が、自らの「女」を男たちの消費の対象として確信的に晒すことに躊躇(ためら)うのは、その女が、自らの「女」を商品価値として高くセールスすることの方法論でなかったとしたなら、一体何だろうか。

 「女」を確信的に割り切ってセールスすることで手に入れる価値の大きさよりも、その女にとって、一個の「人間」としての最低限の誇りの方が、より価値のある何かであったからだ。それが、圭子という女の生き方だったのである。

彼女には、どこかでそれが充分な本意であるという実感を抱けなくても、それでも佃島の実家の生活を絶対的にサポートする負債的義務が存在していた。それが形式的で、言わば義理的な負債感ではなく、肉親の絆の脆弱性の内においてもなお、それを不可避なる負債意識として感じる心の受容スタンスが、決定的に裂けたものになっていなかったということ、それが彼女にとって何よりも痛切だったのである。

 生活力のない兄と、依存心の強い母親を目の当りにして、彼女の心は常に萎えている。それでも小児麻痺の甥を扶助しようとする心情は、最後まで死んでいなかった。それもまた、肉親の腐れ縁のような絆と言っていいだろう。まさに、この映画の抜きん出た秀逸さは、圭子の佃島の実家の生活風景をきちんと描いたところにある。

 胃潰瘍を患った圭子が、実家の母と怒鳴り合いのような言い争いをする描写は、一見、華やかな彩りを見せる銀座のマダムの心の風景を極めて自然に、且つ繊細に映し出す効果を引き出していて、映画公開時に大ヒットしたこのモノクロフィルムを、フラットな娯楽作のカテゴリーに収斂させなかったのである。

そこに描かれているのは、「思うようにならない人生」を生きねばならない者たちの、そのシビアで、苛烈なる人生の有りようである。圭子が負った人生の重さは、彼女の固有の生い立ちと、その後の不幸な別離、更にその人生に絡みつくような、肉親のドロドロとした絆によって裂かれる心の安寧の不在、そして彼女が 関わる男たちのエゴイズムに無惨なほど振られていく、その厳しい現実の実相そのものだった。

 必ずしも、男たちが一方的に悪いのではない。世の女たちが、押し並べて犠牲者なのではない。人生とはそんなものなのだ。心地良き酩酊のひと時もあれば、眼を背けるような不運な現実もある。能力だけの問題でもない。人生は思いもよらぬ運不運によって、どのようにでも作られてしまうのだ。常に努力が報われるとも限らない。常に誠実さが空気を支配するとは限らない。どのように振舞っても、血を吐き下す凄惨な時間に耐え切っても、なるようにしかならない時がある。それが人生なのだ。

成瀬の映画は、私に様々なものを問題提起して止まないのだ。それだけ彼の作品が、私たちの等身大の人生といつでもピタリと重なる部分が多いからに他ならない。

 これほどまでに優れた映画作家を喪った今、日本映画に向かう私の関心は、いつも少しずつ何かが削りとられていくように、寒々しい風景をそこに晒してしまっている。だから私は、舐めるようにして、繰り返し成瀬を観続けるのである。



乱れ雲(成瀬巳喜男)


「乱れ雲」は、「乱れる」に続くメロドラマの傑作である。と言うより、それは私の独断的評価の中では、日本映画史上におけるメロドラマの最高傑作である。

当然そこには、メロドラマ一流の通俗性がべったりと張り付いている。美男美女の主人公がいて、その関係を媒介する通俗的な設定が映像の内に幾つか仕掛けられていて、 そこに滅多に起こり得ないような偶然性への依存が平気で罷(まか)り通っている姑息さをも内包している。従って映画の完成度としては、成瀬の幾つかの秀作と比較すると、極めて物足りないという評価を下さざるを得ない。

 それにも拘らず、私はこの作品が好きである。感動もする。「泣かせる映画」を最も嫌う私だが、この映画に関しては例外だった。映像の内実が、「成瀬ワールド」のカテゴリーを大きく逸脱していなかったからだ。やはりそこは成瀬らしく、奇麗事の描写で流すことをしなかった。

「薄幸のヒロイン」はそこで必死に呼吸を繋いでいたが、特段に抜きん出たヒーローはいなかった。特に、ラスト20分の映像の緊張感は、メロドラマの通俗性を突き抜けていた。そこでの心理描写の巧みさが、映像の完成度を充分に補完していたのである。

このシンプルな映画は、眩し過ぎる新妻・由美子の至福に充ちた微笑が、突然、暴力的に奪われることになったことから開かれていく。夫が交通事故によって、一瞬にして、その尊い生命を喪う羽目になってしまったのだ。

 夫の遺体が安置されている閉ざされた空間で、「あなた・・・」と嗚咽を刻む妻の表情を短く映し出して、その後の描写は、既に葬儀の場面にシフトしていた。その中枢に、幸福の絶頂から転落した新妻と義父母が肩を落として座っている。

 そこに一人の男が、場違いな空気の中に入り込んで来た。男の名は三島。商社マンである。そして何よりも、由美子の夫を車で轢いた張本人なのだ。男は自らを名乗り、遺族の前で深々と頭を下げた。

 そんな男に、義父の罵声が飛んだ。
 
 「あんたがウチの息子を殺したんやな!何しに来たんや!あんた、ウチの息子殺しとって、ここへ何しに来はったんや!」
 
 義父の隣に小さく座る未亡人の表情も、憎悪の感情をストレートに炙り出していた。深々と頭を下げた後、男は立ち去ろうとした。

 そのときだった。今度は未亡人となった由美子が、男に向かって、凄い形相で追い駆けていく。それに気づいた男は振り向いて、頭を下げるのみ。そこに置き去りにされた女は、全身を貫流する憎悪感を、理知的な音声に結べない辛さの内に重々しく刻んだ。それが全ての始まりだった。

しかし、時の移ろいが、次第に由美子の傷心を癒していく。三島の変わらぬ誠意を受容できる隙間が、由美子の心の中に生まれつつあった。

二人の若い男女に横臥(おうが)している決定的な溝は簡単に埋まらないが、女の男に対する敵意の感情は僅かずつ和らいでいった。男がそうであるように、女もまた、未来を創り出そうとしつつあるのだ。自分に残されたあまりに多くの自由なる時間を捨てる程に、女のトラウマは、自らの自我に深々とその致命的な痕跡を晒すものにはなっていなかったのかも知れない。

 男の心の中に、女に対する慕情が生まれてきたのは、ある意味で自然なことだった。傷心を癒そうと努める女の憂いの表情は、男にとって魅力的なのだ。勿論、男には分別がある。しかしそこに禁断の印がついているからこそ、しばしば男は、暴走へ の衝動に駆られるのである。これは、女が美女であるということ、更に、女が懸命に耐えているという事実とも無縁でないが、同時に、関係が禁断の印を内包しているという一点が迫る解放への衝動は、恐らく決定的なまでに重大であったに違いないのである。

 男がいて、女がいた。その間に禁断の印が固く、鋭利に施錠されていた。禁断の印が初めにあったのだ。関係の微妙な進展は、いつも禁断の印を意識していく中でこそ孕まれる。禁断の印がそこにあるから、そこから早く解放されようとして、関係が急速に立ち上げられてしまうということが、人生で間々起こるのである。

三島はいつしか、この禁断のラインの内側で由美子を愛するようになっていく。由美子もまた、三島の誠実な人柄に惹かれていった。関係の内に禁断の体臭を嗅いでしまったからこそ、二人は急接近してしまったのだ。由美子は煩悶する三島の中に、許し難き事故の加害者であるという定まったイメージではなく、少しずつ、加害者であるが故に煩悶する、一人の同情すべき被害者像を見てしまったのである。

 男と女の暗い情念の交錯の中に、禁じられているが故に噴き上がってきた感情が、やがてその封印を解いたのだ。男は女に裸の自分を曝し、女もまた禁断の世界を突き抜けようとした。ラストに向かう約20分間の映像は、メロドラマの感傷性を呆気なく砕いていくリアルな心理描写で埋め尽くされる。まさに成瀬の独壇場だった。

 最初にして最後の逢引を果たすために、男と女は急くようにしてハイヤーに乗り込んでいく。車内で二人は何も語らない。二人を乗せたハイヤーは温泉宿に向かっていく。車内で二人は見つめ合った。そして微笑んだ。幸福を掴みかかっている生身の身体を乗せて、ハイヤーはその幸福を検証する未知のゾーンに向かって、ひた走った。

 そのハイヤーが今、踏み切りで止まった。警報機が、何か必要以上声高に叫んでいる。 沈黙しあう二人に名状し難い緊張が走り、映像は無機質な音声だけを記録して、ほぼ一分が流れていく。一分という時間の長さを改めて感じさせるほどの空気が、車内に澱んでいるようなのだ。踏み切りで立ち往生する、ハイヤーという名の無機質な媒体が、内側に抱えたデトネーションの恐怖に震え慄いているようだった。

 列車が通過した後踏み切りが開いて、まもなくハイヤーは、解放された思いを込めるかの如く発進していった。空気が弛緩したのも束の間、二人の視野に、交通事故の惨劇が唐突に飛び込んで来たのである。そこに決してあってはならない光景が広がっていた。微笑みかけようとした男の顔は引き攣り、女は固まってしまった。二つの魂は、一瞬にして凍りついてしまったのだ。ハイヤーの中では、二人の言葉が意味を持つ音声となって、最後まで吐き出されることはなかった。

温泉宿に着いた二人は、何も語らない。語れないのだ。凍りいた魂が言葉を奪ったのである。二人は寄り添った。抱擁しあった。しかしそれ以上進めない。その息の詰まる空気を溶かしたかったのか、由美子は窓際にまで離れて行った。

 ところが、窓の外側の世界で異変が起きていたのだ。先程の交通事故の被害者が、温泉旅館に運ばれて来たのである。やがて、サイレンを鳴らした救急車が到着して、事故の被害者が担架に乗せられて、あっと言う間に移送されて行った。事故の被害者の妻の号泣が、辺りの静寂を決定的に奪っていた。一瞬の出来事だったが、二階の男女には永久なる時間の重みがあった。二人はもう抱擁を重ねることはできない。最も重い沈黙が流れた。この沈黙が、禁断の愛の終りを告げたのだ。

禁断の愛の魔力は、その禁断性によって圧倒的なパワーを持つ。しかし、そんな自我の堅いガードに弾かれて、私たちの多くは魔境の杜を抜けられず、体温を奪 われて、晒されて、震えながら日常性に立ち返ってくる。私たちの日常は、その体温が維持される条件の下で更新され続け、時間を繋いでいくのだ。日常性の破壊的更新という魔のカードは、私たち庶民の生理に相応しくないのである。

映画「乱れ雲」を観るたびに、私はいつもそんなことを考える。これは、禁断の愛がその畔で佇んでいて、更にそこを突き抜けようとして、遂に果たせなかった、男女の哀切の極みを叙情的に描き切った秀作である。



Shallwe ダンス?  (周防正行)


本作は、「豊かな社会」で呼吸を繋ぐ者の、「生き甲斐」探しの旅の行程が内包する困難さの様態を基本骨格にしたヒューマンドラマである。

 そして、「生き甲斐」探しの旅の行程である、「道修行」の退屈さをコメディラインで補完することで、娯楽映画としては長尺な物語になったが、どこまでも基幹テーマは、「豊かな社会」で呼吸を繋ぐ者の、些か厄介な「生き甲斐」探しの旅の行程の、微毒だが、決して粗略にできない、「非日常」の旅程相応の危うさに満ちた様態を射程に収めていることだけは間違いないだろう。

電車の中から見た「物憂げの美人」への関心を契機に、ダンス教室に通う杉山の世俗的な振舞いは、何より彼自身が、中年期のステージにあって、「生き甲斐」 探しの旅を必要とするに足る、未知なる「人生の転換点」の迷妄に搦(から)め捕られていて、この迷妄を浄化し、それを上手に乗り越えるための契機を求めていたことの心的現象の顕在化であり、それは「助平心」という情動に隠し込んだ、退屈な日常性から「非日常」へのステップへの入り口に過ぎないと考える方が自然である。

 そして、舞という名の「物憂げの美人」もまた、「生き甲斐」探しの旅というカテゴリーに収斂し切れないほどの「危機」にあった。

その「物憂げの美人」の、鋭角的に停滞した人生の時間のうちに入り込んで来たのが、本作の主人公の杉山だったという訳だ。そんな男の邪心に対して、レベルの違う世界に棲んでいると信じる舞の内側で、激しい拒絶反応を抱くのは必至だったと言える。

 ここに、本作の物語の分岐点となった、「物憂げの美人」の辛辣極まる拒絶宣言がある。

「こんな言い方失礼かも知れませんが、もし私のことが目的で、この教室にいらしているんでしたら、ちょっと困るんですけど・・・私は真剣にダンスを踊っています。教室はダンスホールじゃありません。不純な気持ちでダンスを踊って欲しくないんです」

 粘り込んで待ち伏せし、食事を誘った杉山への物言いは、殆ど袈裟斬りの切れ味を見せていた。ところが、この袈裟斬りの切れ味を受けた男が、この一件を契機にして能動的に変容していくのである。その後、駅のプラットホームでも、家庭でも、街路でも、ダンスのステップをする杉山が、溌剌な身体表現を駆動させていくのだ。

杉山の真剣さを認知した「物憂げの美人」は、トラウマとなっていたダンスの世界への復元を果たしていく。ここで由々しきことは、「物憂げの美人」の辛辣極まる拒絶宣言を受けても、そのことで致命的な受傷の後遺症を晒すことなく、なおダンス教室に通い続けたという杉山の行動である。

 その答えが、物語の終盤に待っていた。既に、相互の感情の縺れが浄化されていた関係を紡ぎ始めた頃の、「物憂げの美人」と杉山との、本音の思いを吐露する言語交通のシーンがそれである。

 「良い年して、こんな言い方恥ずかしいですが、毎日毎日、生きているなって感じがして。何だか疲れるのも、却って気持ちいいんです」

 更に、男は言葉を繋ぐ。

「28歳で結婚、30歳で子供が生まれて、40を過ぎたところで、念願の家も買った。結婚、出産、マイホーム。そのために全力で働いた。正直言って、幸せ な人生だと思っていた。ところが、家を買った途端に何かが変ってしまった。妻に不満がある訳ではない。子供が可愛くない訳ではない。でも、何かが変わった。今度はローンを返すために頑張ればいいのに、気持はそう思っているのに、何かが違う。そんなときに、あなたに出会った。毎日見ているうちに、あなたと 一度でいいから、ダンスを踊って見たいと思うようになった」
「でも、あたしがあんなひどいことを言ったのに、あなたはダンスを続けたわ」

 ここでも直截な舞の発問は、同時に、本作を観る者からの発問でもあった。その発問に、それまでの彼のイメージを突き抜けたかのような態度によって、杉山は凛として答えていくのだ。

 「随分、迷いました。だけど、ここで辞めたら、あなたの言ったことを認めることになる。・・・あんな風に言われたことはショックだった。あなたに、思い知らせてやろうと思ったんです。あなたが目的じゃない、ダンスをするために、ここに来ているんだって。でも、そうやってしゃにむに踊ってたら、本当にダンス が好きになっていた」

 本作を通して、最も重要な会話である。

これは同時に、「人生の転換点」の第1ステージの大きな課題に頓挫し、それを一貫して引き摺っている者と、恐らく、「人生の転換点」の第1ステージを無難に通過してきた自我が、人間の基本的欲求を満たした直後から襲いかかってきた第2ステージのテーマを、内深く抱えた者との直接的な会話である。

 私は、この二人の、このときの会話こそが、この映画のエッセンスであると把握しているので、物語の、その後の二人の展開は殆ど予定調和のラインをなぞる ものであったとしても、映画が内包したテーマ性を脱色させる、比較的上出来のスラップコメディの文脈とは全く無縁な、殆ど盤石なる娯楽映画として率直に受容している次第である。

要するに、娯楽映画としての一級の完成度を印象付ける本作は、「喪失したアイデンティティの奪回」=「アイデンティティの再構築」についての物語であったのだ。



荷車の歌(山本薩夫)


望月優子と三国連太郎の演技の冴えが絶妙にクロスして、この無名の庶民史の一篇を恐らく不朽の名作にした、「社会派の巨匠」、山本薩夫の最高傑作。

 高予算をかけて低級なハリウッド的娯楽映画を作り続ける昨今、日本映画史に埋もれつつある、このように地味だが、しかし力強いモノクロの映画と出会うと き、人々はそこに何を感じ、そこから何を手に入れるのだろうか。或いは、この種の映画に何も感じないほど、人々を運ぶ時代の船は、もう後戻りができないところまで移ろってしまったのだろうか。

市井を賑わした出来事が忘れ去られるのに、今や十年の歳月も必要としない。文化の継承などという幻想も、大抵は底が浅いのだ。

 この「荷車の歌」という名作が、近未来の映画好きの人々の中で、果たして、その文化的価値が保持されているかどうか微妙なところである。なぜならそれは、「貧しい者が絶対的に苦労する時代を背景に描いた、ごく普通の一人の女の一代記」だからである。

原作は山代巴(やましろともえ)。

「山代巴獄中手記書簡集」(平凡社刊)、「囚われの女たち」(径書房刊)等の著作でも有名な、知る人ぞ知る、戦前に夫(獄死)と共に治安維持法で逮捕され、獄中体験を経た「女性革命家」である。広島で生まれた彼女にとって、「荷車の歌」は入魂の一作であると言っていい。

 この地味な原作を、「異母兄弟」の依田義賢(よだよしかた)が脚色して、「真空地帯」の山本薩夫が監督した。「社会派の巨匠」によって演出された本篇は、幸いなことに、ケチな社会派の左翼的宣伝映画の枠を遥かに超えて、一級の人間ドラマに仕上がっていた。欧米の肝の座った映像作家たちの幾つかの作品がそうであるように、しばしば覚悟を括った社会派の作品から秀逸な人間ドラマが作られていく事実だけは、シネ・フィルならずとも認知せざるを得ないところである。

時代は、明治二十七年。

 地主の屋敷に女中奉公する一人の女を、郵便配達夫の茂市(もいち)が見初め、求婚した。彼に好意を持つ女は、家族の反対を押し切って結婚する。茂市は郵便配達夫で稼げなくなってきて、女に荷車引きになることを促し、執拗に説得した。

 女の名はセキ。以来、セキと茂市の苦労多き人生が始まったのである。

 「茂一さんのために、親を捨てたんじゃ」

 あらゆる苦労も、茂市を一途に思うセキの、女としての強さが未来を拓いていく。

セキは茂市の母に嫌われて、その食事も自分だけが粟飯(あわめし)の弁当を持たされる仕打ちを受けるが、彼女にはめげる様子がない。セキは明治女の強さを一身に持った、極めてバイタリティ溢れる働き者だった。自らも荷車引きとなって、夫と共に五里の山道を往復する苛酷な労働に明け暮れる。彼女の表情からは、常に笑顔が絶えないのである。

そんなセキは、姑から冷たくされても四人の子供を育て上げ、車問屋になる日を夢見つつ、隙間のない日常性をひたすら重ねていく。娘を養女に出し、姑の死を優く看取。他の誰もがそうであったように、平等に貧しかった時代が強いた日常性には終りがこない。

 やがて鉄道が敷かれ、荷馬車での搬送が一般化され、手仕事だけの荷車引きの仕事は時代から取り残されていく。それでも、日本の女は滅法強い。子供たちをそれぞれ自立させていく母のパワーは、恐らくこの時代に頂点を極めていた。夫が愛人を自宅に同居させても、妻の座を譲ることなく普通に遣り過ごす。

 圧巻は、病気の故に兵舎から送り返された次男三郎に対して、愛人と一緒になって「非国民性」を面罵するシーン。母思いの次男が遂に切れて、愛人を難詰(なんきつ)し、結果的に家から追い出してしまうのである。時代の空気を見事に写し撮ったこの「描写のリアリズム」は、社会派監督らしい演出の冴えを際立たせていた。やがてそこにしか逃げ道がないかのように、病気を治癒した次男は再び兵役に就き、そして戦死する。

この一連の厳しい文脈を、母はひたすら悲しむことによってしか受容できない。その悲しみの受容は、原爆の後遺症によって畑で倒れる夫の最期の描写をもって、果たして完結したか。その葬式の日、孫たちを荷車に乗せた老婆は最後まで力強く、彼女の全てであった労働を捨てなかったのだ。明治から昭和の時代までを生き抜いた、名もなき女の一代記は、こうして映像的完結に至るのである。

 唯、それだけの話だった。それだけの話だが、この一生を経験的になぞっていく覚悟を持つ者が果たしてどれだけいるだろうか。そのような時代があった。そのような時代の制約の中で、人々は身過ぎ世過ぎを細々と繋いでいった。

 しかし今、私たちには、「そのような時代」も、「細々と繋ぐ暮らし」も、貧弱なる想像力によってしか把握できないであろう。仕方ないことである。均しく貧しかった時代の只中に、その主体的意志によって選択的に後戻りさせる覚悟を本気で持つ者が存在するとは、私には到底思えないからだ。それでいいのだろう。しかしそれだけで済まないものが、この映画にはあった。そこに普遍性を感じさせる何かがあった。なぜなら本作が一級の人間ドラマであり、その種のドラマが内包する価値は、殆ど普遍的なメッセージに繋がる何かを持っているからである。

この映画の主人公であるセキは、殆ど等身大の、ごく普通の女であった。映像に映し出された彼女のバイタリティは、その時代に生きた女性の生活感覚と特段に変わるものとは言えないであろう。

懸命に働かなければ生きていけない時代の中では、労働に明け暮れる日常性は特筆すべきものではない。週休二日制の8時間労働が定着した現代に、当時の女たちの日常性の艱難な時間のみを切り取って、それを顕彰すべき価値として喧伝し、表面的に移植しようとしても何の価値もないことだ。

確かに、この映画の基幹メッセージを、「汗水流して労働することへの尊厳と、その尊厳を日常性において表現する者たちへのオマージュ」と把握することは容易である。しかしそんなフラットな把握の内に、映像の表現的価値を収斂させてしまったら、当時流行した、「社会主義リアリズム」の映像表現の範疇で処理されてしまうのが落ちであろう。

 果たしてそうなのか。一級の人間ドラマが内包する価値は、時代の枠を突き破り、国境の狭隘なバリアを超えていく。この物語もまた、そこをクリアしたからこそ、21世紀に生きる私たちの普通の感性に届き得る普遍的パワーを持ち得たのである。

 主人公のセキはごく普通の生活感覚で生きる、ごく普通の女性であったが、しかしそんな普通の女が持つ、ある種の強靭さをも体現した女性だった。その強靭さは特段の輝きを放つものではないが、それでも固有の存在感を充分すぎるほど体現していたのである。

 セキの強靭さは、彼女が茂市と知り合い、親の反対を押し切って結婚したその意志の継続力に現われていた。これが彼女の、大地に深々と根を張った物語の端緒となったのである。彼女は茂市との生活を共存する運命を選択したことによって、それ以降のシビアな精神的・生活的レベルの課題に取り組むことを余儀なくされた。

彼女の選択は、もう後戻りできない選択だった。彼女はそこで荷車を引き、姑と折り合いをつける人生から逃げられない状況に、自らを投げ入れたのだ。彼女の強さは、退路を断った者の強さだったのである。

彼女のこの「退路を断った者の強さ」の根柢には、夫となった茂市への思いの強さがある。茂市を選択した彼女は、その選択によって必然化する生活的、精神的負荷をも選択したということに尽きる。その負荷が想像以上だったとしても彼女は茂市を選択し続けたのだ。それ以外の選択がなかったと言うよりも、セキという女が、茂市という男を人生の伴侶に選び切った意志の強靭さこそ天晴れだったと言うべきか。

私が思うに、彼女は、「愛情を込めて育て上げた子供たちが、いつでも帰るべき場所を作った女」であるということだ。人がその土地を離れ、遂に帰るべき場所を失ったとき、人は最も寂寥なる人生を閉じることになるであろう。自分が帰るべき場所を持つか持たないか、それが人間にとって最も大切な人生の要件であると言ってもいい。

 セキは、少なくとも、自分の子供たちが帰るべき場所を作り上げ、それを守り抜いたのである。母親として、これ以上の大仕事はないと言えるかも知れないのだ。映像で観る限り、セキの家を離れた子供たちは、必ず帰るべき場所に戻って来た。そこに、彼らの母が呼吸を繋いでいたからである。凛として繋いでいたからである。

 子供たちの帰還はお盆の帰還であったり、祝祭の帰還だったり、葬儀の帰還であったりした。彼らの帰還の理由には、彼らが他の場所で作り上げた新しい生活に絶望した故のものでは全くなかったのである。彼らは常に堂々と帰還し、堂々と旅立っていった。三郎の帰還だけは例外だったが、しかし、それは三郎の人生の敗北を意味する帰還ではなかった。不運にも三郎は戦場に散ったが、最後に長男の堂々とした帰還が描かれることで、この物語は、「愛情をかけて育て上げた子供たちの帰還」をテーマの一つとして包含されているだろうことが窺えるのである。

セキを演じた望月優子。そして茂市を演じた三國連太郎。共に渾身の役者魂が炸裂していて、それもまた実に天晴れだった。「打倒されるべき階級敵」が全く出てこない映画の括り方もまた、天晴れだった。

この映画が、農家の主婦のカンパによって作られた独立プロの作品(製作は、「全国農村映画協会」)であることに、今更ながらに驚嘆する。低予算でもこれほど濃密な人間ドラマを完成させる力量があることを見事に証明したのだ。遥か半世紀近く昔に。



炎上(市川崑)


「正義」や「善」が、「不正義」や「悪」の存在によって成立する対立概念であるように、「美」もまた、その対極にある「醜」の概念によって成立する相対的概念である。

 ここに、二人の青年がいる。

一人は、「醜」の直接的な身体表現としての「障害者」であることを逆手に取り、それを声高に叫ぶことで「健常者」の偽善性を告発し、そこで手に入れる優越感によって、倒錯的な心理のうちにアイデンティティを確保する「内反足」の青年。

 もう一人は、件の青年の如き攻撃的な生き方が叶わず、吃音という、「醜」の直接的表現としての「障害者」である自己を差別する、不特定多数の「健常者」に対する屈折した心理を、己が自我のうちに丸ごと囲い込んでいる青年。

 前者の名は戸刈、後者の名は溝口吾市。

 色々な意味で脆弱な印象を与える吾市に、「吃れ!吃れ!」と煽り続ける戸刈の戦略は、「健常者」が作る社会規範を無化するには、「醜」を前線に晒した自我によって、斜に構えて掬う観念的武装以外にないというものだ。

煽り続ける「メフィストフェレス」(戸刈)の、ハイリスキーな戦略を遂行する狡猾さと無縁なほどに、人間観察力の脆弱な吾市の、防衛的なまでにピュアな観念系は、「醜」の直接的な身体表現である、吃音者という劣等意識を超越的に浄化するものとして、「絶対美」の存在を仮構し、その「絶対美」のうちに全人格的に投入することで、「汚泥した世俗」の現実を無化する自己防衛戦略に潜入していくものだった。

この「絶対美」の実在的対象こそ、彼の父親が吃音の息子に対して、洗脳的にインスパイアーした京都の驟閣寺。父親の遺書を携えて、吾市が驟閣寺の徒弟として住み込むことになったのは、殆ど必然的な流れだったとも言えるだろう。

 吾市にとって、驟閣寺の懐にあって、驟閣寺と睦み合える日々は至福だった。しかし、吾市の至福の日々は長く続かなかった。彼が信じた驟閣寺の道詮老師が世俗に塗れた偽善者であり、それを認知させられるに至った一件によって、老師からの冷たい仕打ちを受けるという経験を持ったことである。

驟閣寺の自分の徒弟部屋で、顔を埋めて嗚咽する吾市。人間観察力の脆弱な吾市にとって、道詮老師の存在は、一貫して、「絶対美」である驟閣寺を守護するストイックな禅僧以外ではなかった。この児戯的な幻想が根柢から破綻したのである。純粋な魂ほど幻想を持ちやすいのだ。

中枢を空洞化され、自殺に振れていくネガティブな心理が、遂に自殺を目途にした旅路への選択的行為に繋がっていく。青年の脳裡には、「汚泥した世俗」の象徴である母に裏切られて、孤独のうちに死んでいった父の苦衷の表情が思い出されるばかり。しかし、吾市は自殺を翻意した。それは、「自分には未だやり残した使命がある」とでもいうような心理の振れ方だったのか。

ここに、本作で最も重要な会話がある。自殺を翻意して寺院に戻った吾市と、戸刈との会話である。

戸刈の下宿を訪れた吾市に、戸刈は放言した。

 「俺は今日、驟閣を初めて見て回ったんだが、聞きしに勝る良いところだった・・・国宝と称せられる建物もあるし、金は集まり放題やし」

 吾市は珍しく反駁する。

 「いや、違うんや。君には分らへん」

 戸刈の反応は、相変わらず毒気含みだ。

 「じゃあ、お前には分ってんのか。驟閣はお前の何なんだ!お前はただ、小さくなって和尚に養われている徒弟に過ぎないじゃないか。まあ、あの寺を離れたら、吃りの君などは一日だって生活できないんだから、その意味で、君が驟閣に執着するって言うんなら分るがね」

 このときの吾市の反駁には、それを開かざるを得ないマキシマムな感情と、彼なりのピュアな観念系が存分に乗せられていた。

 「違うんや。驟閣は誰のものでもないんや。老師のもんとも違う。驟閣は始めからあったんや。始めから奇麗やったんや。皆で金儲けの道具にしようとかかっているんや。せやけど、驟閣は変わらへんで。君は生きているもんは、皆、変わる言うたけど、驟閣は生きているけど変わらへんで。俺が変わらせへん」

 「俺が変わらせへん」と言い切った思いこそ、もう選択し得る行動を特定した者が辿り着いた厄介な地平であった。

吾市は今、一人の確信犯と化していた。

「誰も分ってくれへんな。俺のすることは、たった一つ残ってるだけや」

 驟閣を見ながら呟く男が辿り着いた厄介な地平が開かれるのは、この直後だった。

全焼する驟閣寺が紅蓮の炎の中で、火の粉を巻き上げてモノクロの画面を支配し、崩れゆく前の「絶対美」を誇示しているようだった。

「誰も分ってくれへんな」

 この言葉こそ、事件を起こした青年僧の心象風景そのものだった。自らの心を安寧にし得る唯一の場所を汚されて、もうそこに居場所を失ったアイデンティティクライシスと、「絶対美」を誇る彼の中の思いが一つになったとき、彼はそれ以外にない行動を起こし、そして、それ以外にない流れ方によって「永遠の世界」に旅立ったのである。

忘れ難い秀作である。



泥の河(小栗康平)


「三種の神器」に象徴される時代の幕が開かれていった、そんな活気ある時代状況下にあって、高度経済成長の澎湃(ほうはい)たる波動に乗れないでいる、二つの家族がある。

 それが、本作で描かれた家族である。

 一方は、バラック立てのような「橋の下」でうどん屋を営む、父母と息子の三人家族。もう一方は、その家族の対岸に停泊している宿舟に住む、母と姉弟の三人家族である。共に、「橋の上」の世俗世界で、時代相応の日常を繋ぐ一般庶民の生活レベルと比較すれば、相対的に貧困の濃度が高い家族と言っていい。

 「橋の下」という概念には、高度成長に乗り切れない貧困家庭の生活風景の象徴性という意味が内包されている。「橋の下」のうどん屋の亭主は、一貫して、「戦後」を引き摺って生きてきているからだ。

「今になって、戦争で死んどったほうが楽だ と思うとる人、ぎょうさんおるやろな・・・・長いことば、人の死に目にばっかりおうて来た。そこへひょっこり、信雄が生まれてきよった。それも40過ぎ て、初めてワイの子がでけた・・・」

その父のきつい言葉を、隣の部屋で、ナイーブで心優しい、一人っ子の信雄は狸寝入りしながら聞いている。

 そんな信雄が、偶然、出会った一人の少年がいる。土砂降りの雨の日、放置された荷馬車引きの荷物を盗もうとしていた喜一少年である。この喜一こそ、対岸の宿舟で生活する家族の息子であり、礼儀正しい振舞いを見せる姉と、「丘では生活できない」と吐露する母と共に、学校に通うこともなく水上生活を繋いでいた。

 一方、喜一にとって、学校に通うことは、宿舟生活を否定して、丘の住人のコミュニティに加わることであった。それは、宿舟生活者が特定的に差別され、排除されていく屈辱を累加させていくこと以外ではなかったのだ。

夫が死んだショックから、丘で生活できなくなった喜一の母は、今や「廓舟」と蔑称され、夜毎、ヤクザ紛いの男を相手に、体を売る娼婦によって身を立てている。しばしば、姉の銀子と共に喜一もまた、母の客引きをしているという噂も立っていて、この「廓舟」の家族が地域に溶け込めずに差別されている現実が、要所要所で描かれていく。

「夜は、あの船、行ったらあかんで」

 これは、信雄の父の言葉。いつの時代でも、我が子に見せてはならない世界があり、なお継続的に、その世界を隠し込むことで守られる秩序の維持によって、相対的な安寧を手に入れる何かが存在するのだ。

しかし、信雄と喜一の運命的な友情は、ある出来事を契機に劇的に破綻していく。大阪天満宮の天神祭りの日だった。喜一が、信雄の母からもらった金を落としたことで、少年なりの申し訳なさから、信雄を楽しませてやろうと宿舟に誘ったのである。

誘われても断れない信雄は、喜一の後ろについて、夜の宿舟の狭いスポットの中に吸い込まれていく。夜の宿舟で、喜一が為した行為 ―― それは、自分で飼っている蟹をランプのアルコールに漬けて、火を点けるという遊びだった。

 信雄の目前で残酷な遊びをする喜一は、少なくとも、優しい少年の許容範囲を越えるものだった。信雄を悦ばせようとする喜一の遊びに、眼に涙を溜めた信雄は衝動的に反発する。

 「可哀想や。やめとき」

 そう言うなり、自ら炎を消していく信雄。光る涙。炎を消していきながら、舟の縁を伝わって、喜一の母のいるスポットまでゆっくり進んで行く。「禁断のスポット」の内側で、入れ墨男と情交中の喜一の母親と、視線が合ってしまったのは、まさにそのときだった。

 未だ、信雄の眼には涙が光っている。気まずさを感受しつつも、動けない。衝撃のあまり、体が凍りついてしまったようだった。眼の前で展開されている情景こそ、ナイーブな少年の自我に張り付いている「いかがわしさ」のイメージの正体であることを知ったからだ。

 喜一のいる位置にまで這い戻った少年は、もう言葉に出す何ものもなかった。二人の少年は、一瞬、見詰め合う。信雄の眼から光る涙は、なお消えることがない。このときの喜一の表情は、余りにも切なかった。言葉に出す何ものもない信雄は、そのまま去っていくのだ。たった一人の友人を見詰めるだけの、喜一の表情の哀切さ。

 それは、映像で記録された子供たちの表情の中で、最も哀切を極めた印象的な表情であると言っていい。絶対に見られてはならないものを見られてしまったときの、どうしようもない遣り切れなさであり、哀しさであり、耐えられなさであったに違いない。それは同時に、失ってはならないものを失っていく不安と恐怖の感情が張り付く何かであった。

宿舟に戻って来た姉の銀子が、そこに立っていた。信雄を見詰める少女。ここにも言葉がない。言葉に結ばせる感情が貯留していても、その感情を言葉に変えていく技術がないのだ。言葉に変えていく技術を学ぶに足る経験が、未だ圧倒的に不足しているのだ。銀子を見詰める信雄は、光る涙を捨てていく以外になかったのである。

 銀子の傍らを通り過ぎ、走り去っていく信雄。いつまでも、それを見詰める銀子。

 全てが終焉した瞬間だった。それは、丘との禁断の越境を果たした「友情」の決定的破綻を示すものだった。

ナイーブであるが故に、自分の最も親しい友だちが、どこかで密かに恐れていた負のイメージをなぞるように、突然、親愛感情のうちに包括した自分のパーソナルエリアから離脱して、自分が支配し切れない世界にまで行ってしまう寂しさ・哀しさ。そして、丘に住む者たちが、宿舟の家族を軽侮する理由がどこにあるかという、忌まわしい現実を知ったことそれ自身が放つ衝撃の大きさ。

その寂しさ・哀しさ・遣る瀬ない感情を作り出した大人の支配する関係文脈を、少年なりに理解できたとき、少年の内側に、子供の力ではどうすることもできない喪失感を生み出したのだろう。この一連の心理の絡みの中で、少年の涙が分娩されたのである。

 何より、この夜に被弾した苛酷なまでに激しい衝撃が、二人の少年の友情を破綻させていくのだ。翌日、別れも告げずに、宿舟は去っていった。差別された者たちの、拠って立つ共有幻想の時間の悲哀を、切々と観る者に訴えるこの力こそが、紛れもなく本作の生命線である。

好みの問題として言えば、私としては、 5分間にも及ぶラストシークエンスの感傷系には違和感を覚えるものの、これだけの完成度の高い映像を構築した小栗康平監督の処女作に絶句する。映画史に残したい「名画」の一篇である。



悪人(李相日)


本作は、部分的に商業ベースで譲歩したベタな描写や、BGMのフル稼働が気になったものの、その印象を希釈させるに足る、近年稀に見る、傑作という名に値する邦画の一篇だった。

本作の主人公である祐一は、幼少時から、他の子供には一般的に見られない、「トラウマ」、「愛情」、「尊厳」という克服課題の困難な獲得がクリアされずにいた。

その克服課題の困難なテーマを一言で要約すれば、「承認欲求」と言っていい。

 その「承認欲求」を、思春期以降、彼は、自分を捨てた実母へのリベンジの含みを持って、彼女から、なけなしの金をせびるという屈折した行為に結ばれていた。

 常に、「母性」を求める祐一の自我は、青春期にまで延長されていて、それでもなお得られないことでストックしたディストレスを、孤独なドライブと、「出会い系サイト」という安直なツールによって満たしていく。

 こんな闇深い屈折した青年が、「出会い系サイト」へのアクセスによって手に入れたのは、「買春」による下半身の処理以外ではなかったのだ。それも、自分を見下す女=被害者との希薄な利害関係で蒙る精神的リスクは、偶発的な出来事との遭遇によって、遂に、「買春」の肝心な「パートナー」を殺害するに至るという、最悪の状況を惹起したのである。

 事件直後、そんな祐一が、ただ単に、飽和状態の恐怖感を一時(いっとき)の忘却目的で、下半身の処理を図ろうとして、再び、「出会い系サイト」を利用する。そこに出現したのが、孤独なハイミスの光代だった。

初めて会っても、流暢に会話が弾まない二人のドライブの行き着く先は、下半身処理の空間である一軒のモーテル。

 そのときの、二人の会話。

「でも、変なか感じよね。さっき、会うたかばっかりとに、もう、こがんとこに、おるとよもね」と光代。
「ごめん」と祐一。
「別に、謝らんでよかとよ。ちょっとびっくりしたけど、女でもさ、そがん気持になることだって、あるとよ。そがん、気持ちになるけん、誰かと出会いたかって」

 そこだけは、祐一と同様に、光代もまた、「大切な人」を特定し得る心の旅を繋いでいたのだった。

 今度は、それだけを求めるかの如き、激しいセックスの後の、二人の会話。

「ここに来る途中、安売りの靴屋があったやろ?あそこを右に曲がって、まっすぐ田んぼの中を進んだ所が、あたしの高校だったとよ。そのちょっと手前に、 小学校と中学校。今の職場もあの国道沿い。何か考えてみたら、あたしって、あの国道から全然離れんやったとね。あの国道を行ったり来たりしよっただけで」
「俺も似たようなもん」
「でも、海ん近くに住んどっとるやろ?海に近くとか、羨ましかぁ」
「眼の前に海あったら、もうその先、どこにも行かれんような気になるよ」

 この会話が象徴するのは、「出口なしの閉塞感」である。「出口なしの閉塞感」をセックスによって埋める以外にない男の孤独の足掻きが、安ホテルの一室で拾われていた。
 
二人の、この性愛描写のうちに、現代の軽薄な世俗文化の端っこにぶら下がっているかの如き、「最も弱き者たち」が、「最も大切な人」という、それ以外に考えられない把握のもとに、全人格的に求め合い、慰撫し合い、扶助し合う「関係の濃密さ」が哀切なまでに表現されていた。

 その「出口なしの閉塞感」の只中で、妹に揶揄されながらも、彼女なりに「ひた向き」に生きてきた光代だが、自らが起こした殺人事件直後の殺伐とした心象風景を露わにする祐一との接合点は、常に「母性」を求める青年の自我を許容する抱擁力以外ではなかった。

 しかし、この時点において、その接合点が繋がることはなかった。それ以上に、最悪の状況が、そこに露呈されたのだ。

「これしか、なかとけど」

 祐一は、そう言って金を渡したのである。相手の女を、セックス目当てで付き合っていた、「出会い系サイト」の延長上でしか考えていなかったのだ。だから、この日も、その目的のためだけに会いに来た。

「あたし・・・あたしね。本気でメール送ったとよ。普通の人は『出会い系サイト』とか、ただの暇つぶしでするとかも知れんけど、あたしは、本気やったと。ださかやろ」

 先に受け取った金を祐一に戻して、車から降りて、帰って行く光代。ハンドルに頭を叩き付けて、後悔する祐一。堪えていたものを、もう閉じ込められず、自転車置き場で嗚咽する光代。

 翌日、祐一は、佐賀の紳士服量販店に勤める光代の職場を訪ねた。

「謝りとうて・・・仕事中、そんことばっかり考えよったら、もう、どうにもならなくなって・・・」
「そいで、わざわざ長崎から来たと?」

他の女性店員の視線を意識する光代は、祐一を試着室に連れて行った。

「本気やった。俺も、本気でメール送ったとよ・・・本気で、誰かと出会いたくて」

 一旦、別れた後、祐一は、光江のアパートに行って、彼女を連れ出した。警察が来ていることを、電話で祖母から聞いたからだ。

「もっとはよう、光江に会うとけばよかった」

 闇深い屈折した青年が吐露する、切実な心情である。この流れの延長上に、遂に祐一は、「事件」について告白するに至る。

そして、二人のドライブ行の到達点は、最寄りの警察署。自首するつもりなのだ。弾丸の雨の中、初めて「大切な人」を手に入れた青年が、その「大切な人」に別れを告げ、警察署に向かってゆっくり歩いて行く。

 一度、振り返った。祐一の心中のどこかで、「大切な人」との別れ難さが張り付いているのだ。車内からガラス越しに、嗚咽を堪える女の哀切な表情が捕捉された。このとき、女の中で抑制された感情が解き放たれてしまったのである。

 後方を振り返った後、再び、歩行を繋ぐ男。しかし、女の中に入ったスイッチが、男を引き戻させたのである。執拗に鳴らすクラクションが、そこから開かれる、二人の絶望的な逃避行のシグナルとなっていくのだ。

これは、「ラブストーリー」という名の、「母性」による「無限抱擁」と、それを求める者の、全人格的投入の濃密なる時間の物語でもあった。

「光江と会うまでは、何とも思わんかった。悪かこと思わんかった。あの女が悪かことやけん、当然やろと、そがん思いこんどった・・・けど、今、光江といると苦しか。一緒にいればいるほど、苦しゅうなる。俺だって、今まで生きとるかも、死んどるかも、よう分らんかった」

「大切な人」を初めて手に入れた者が知った感情こそ、それを失うことへの恐怖感だった。 

愛することは苦しむことである。相手の苦しみを受容し、自分の思いを投入し合うことで共有される時間の重さは、最も内面的な営為であるが故に、人は初めて、失うことの怖さを知るのだ。

この一連のシークエンスで切り取られていた男女の交叉の中に、本作の最も深い内的行程の一端が表現されている。

それは、人の心の奥深くにまで踏み入って、内面世界の複雑な振れ方をする不定形のさまを抉り出し、それを精緻に表現する映像構築の成就でもあった。



妻よ薔薇のやうに(成瀬巳喜男)


山本君子。

 東京丸の内のオフィス街に勤める女性である。ネクタイを締め、斜めに帽子を被るその装いは、典型的なモダンガールのスタイルを髣髴させる。

 時は昭和ひと桁代。

 満州事変を経ても、未だ中国への本格的な侵略戦争を開始していないこの国の当時の世相は、この映像で見る限り、信じられないくらいの落ち着きを見せている。現代にも地続きなその近代的な雰囲気は、とても世界恐慌のダメージを受けた国の暗鬱な空気感を感じさせない程である。それは、本作の主人公である君子という未婚の女性のイメージが作り出した明るさに因っているのかも知れない。
 
 彼女には女流歌人である母、悦子がいて、今は同居していない父、俊作がいる。だから現在二人暮しの女所帯は寂しさをイメージさせるが、娘の明るさと、母の自立心の強さが相俟って、そこには暗鬱な雰囲気がまるで感じられないのである。
 
 そんな母娘が、時として沈んだ気分に陥ることがある。同居していない父から毎月、郵便為替が送られて来るときだ。 そこには、母娘が毎月何とか暮らせる程度の現金が封入されている。しかし、父からの手紙らしきものが全く同封されていないのだ。いつも最初に封を開ける母の悄然とした表情が映し出されて、そんな母の顔を見る娘の思いも複雑である。
 
実は、君子の父は家を出奔し、信州の田舎町で愛人を作って生活しているのである。

その父を信州に訪ねた君子は、お雪と称する父の愛人の物腰の柔らかさに驚かされる。

「一度お眼にかかって、お詫びも致したいと存じておりました」

 深々と、年下の娘に向って頭を下げるお雪。
 

郵便為替送ってきたのがお雪であると知って、君子はそこでもまた、その攻撃性を萎えさせることになったようだ。

 相手の攻撃性の弱さは、どうやら君子の両親にも共通するものだった。どこかで、似たもの同士の繋がりを感じたのだろうか。しかし、母にないものが相手の女性の中に見られない限り、父との繋がり方が理解できないかも知れないだろう。君子は今、その謎を解くべく旅に出たのかも知れないのだ。

 それでも君子の表情からは、険阻な尖りは消えていなかった。

「皆さん、私を恨んでいらっしゃるだろうと思います」とお雪。
「あたしの母の身にもなっていただきたいと思うんです」と君子。
「立派な奥様がおありなのを承知でお世話になっているんでございますの。本当に済まないと思っております」
「お父さんも、あんまりだと思いますわ。そりゃ、お父さんの気持ち分らないでもないんですけど、母のことを考えると、このままにしておけないと思うんです」

 決して感情を荒げないが、しかし深甚なるテーマに及ぶ二人の短い会話が、そこにあった。

以上は、本作の一部だが、山本君子という、当時にあっては際立つようなモダンガールがナビゲーターとなって描かれる物語の世界は、砂金取りの夢を断念できない、些か自分勝手な父が抱える関係矛盾の中で揺れ動く、二人の女の生きざまに焦点を当てて、二人の女の人柄や価値観の明瞭な相違を浮き彫りにしていくことで、「人は皆、心ごころ」の世界を泳ぎ抜く風景を見事に表現した成瀬巳喜男の初期の傑作である。

二人の女に愛された君子の父は、娘の信州訪問が契機になって上京するが、最終的に誰を伴侶に選んだかという答えはもはや明瞭である。

「人は皆、心ごころですもの。帰るというものを、無理に止められはしません」

 母はその一言を残すのみ。

「心ごころ」とは、人それぞれの思いが違うということ。まさに、この映像の本質を言い当てる言葉だった。

 まもなく、父は信州に帰って行った。

君子の父は観察する女よりも、遠慮げに身を投げ入れてくる女を選んだのである。一緒にいると苦手であると感じさせる女よりも、安らぎを得られる女の方が共存の対象としては最も相応しいという結論を出す、父の思いを理解できた娘は、「お母さんの負けだわ・・・」と呟いた。

この君子の呟きが、映像の括りとなったのは言うまでもない。



リンダリンダリンダ(山下敦弘)


観る者に、冒頭から見せるのは、校内の廊下の長回しのシーンによる、学園祭の準備風景。

 既に、この作品が、「学校生活」という退屈極まる〈日常性〉の中の、「小さな〈非日常〉」を描く映画であることを示唆していて、それを自然な会話を内包する映像によって提示していくのである。

「毒素」や「狂気」と地続きな、それらの〈非日常〉の作品の逸脱性と比較すると、本作で描かれたのは、〈非日常〉の有りようとは明瞭に切れて、本質的に無秩序であるが故に、外的強制力によって「規範体系」を仮構した学校空間という、〈日常性〉から決して逸脱することなく、そこに生まれた限定的な解放空間である学園祭という、「小さな〈非日常〉」の主体としての「生徒」たちの自己運動の様態である。

 そして、何より重要な点は、高校軽音楽部のガールズ・バンドの学園祭での「本番」を描く本作では、着地点が約束されているので、その「約束された着地点」へのプロセスをフォローしていく物語によって構成された映像が芯となる、言ってみれば、「青春爽快篇」という「感動譚」が自ずから期待され、殆ど約束されてしまうのだ。

 ところが、本作は、確信的に「青春爽快篇」という「感動譚」という、観る者との間に形成されているはずの「暗黙のルール」を蹴飛ばしているのである。本作の中で、「青春爽快篇」という名の、「感動譚」のシャワーを被浴するのは困難なのだ。


何より、女子4人組によるバンド自体が、既に、ギター担当の女子の指の負傷を契機にして、近親憎悪の関係にあると言われている、「似た者同士」の「キャットファイト」によって内部破綻していたのである。本番まで残り3日しかないのに、未だボーカルすらも決められない高校軽音楽部のガールズ・バンドの、粗雑極まる内実から物語が開かれていくのだ。

 大抵、このような物語では、「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈で構築されていくので、観る者は、そのドラマの熱き展開を、「驚きと感動」のうちに心情的に予約してしまうだろう。しかし、この映画は、そうした「驚きと感動」のドラマの熱き展開をも確信的に蹴飛ばしているのだ。「困難な状況下の、苛酷な努力による『仲間の再生』」という文脈の暑苦しい臭気を、そこに嗅ぐことができないのである。

 要するに、本作の作り手は、「努力」して「頑張る」という、私たち日本人が最も好む心情ラインに合わせた物語構成を拒んでいるということである。明らかに、アンチ・ハリウッドの異臭を存分に含んだリアリズムが、其処彼処(そこかしこ)に拾えるのである。まさに本作こそ、このような時代に生きる思春期の生徒たちの息遣いや、〈生〉の有りようを精緻に捉え切っていて、それが見事に嵌った作品だった。

「ピアプレッシャー」(仲間意識を求める気持ちの強さが心理圧になる)、「感情優先傾向」、「脱力系」、「目標勾配(目標に近づくほどモチベーションが 高まる)の脆弱性」、「合目的的な行動傾向との不具合感」、「局所最適傾向」(全体のバランスへの軽視感)、「場当たり性」等々。

 まさに、これらの要素が、一連のシークエンスの中に読み取れるのである

 とりわけ、「やって意味あるのかなって・・・」、「別に、意味なんかないよ」という件(くだり)の、凜子と恵の遣り取りこそ、本作のガールズバンドの学園祭へのスタンスを言い表していて、本作を貫流する基幹テーマとなっていると言っていい。

 この恵の言葉が意味するものは、「好きだからやる」という一言に要約されるだろう。

 難しい理念系に縛られることのない時間を、「今、このとき」、愉悦したいからガールズバンドをやるのであって、それ以外ではないのだ。

 彼女たちの青春もまた、「今、このとき」、ブルーハーツのロックに惹かれるから動いたのであり、それは「好きだからやる」という感覚的把握でしか捉えられないものなのである。

 その心情傾向は、「感情優先傾向」であり、「場当たり性」であり、「合目的的な行動傾向との不具合感」であり、「局所最適傾向」や「目標勾配の脆弱性」 を晒しつつも、「脱力系」の気分の中で、彼女たちなりに、「小さな〈非日常〉」の主体としての自己運動を繋いでいこうとする人格的表現の様態なのだ。本作は、「純粋」、「連帯」、「努力」、「根性」、「献身」、「仮想敵との葛藤」等々という、「青春映画の王道」を相対化し切った映画なのである。

 従って、この映画の最も素晴らしいところは、「青春映画の王道」に付きものの、「大人から見た理想の思春期のあり方」という、理念系の暴走が完璧に抑制されていた点にあったということ。理念系の暴走が抑制されることによって、飾ることのない等身大の裸形の青春が、ごく自然裡に映像提示されていたのである。

 「純粋無垢」の青春の熱き「連帯」の結晶であるが故に、「愛こそ全て」などという、欺瞞的言辞に流れていく理念系の暴走から解放されていたこそ、かくもリアルな裸形の青春を切り取ることが可能であったのだ。

「青春映画の王道」を相対化し切った映像の独壇場 ―― それが、本作に対する私の把握の全てである。私は、本作のように、一切の虚飾・欺瞞、奇麗事を剥ぎ取った作品を「名画」と呼んでいる。



HANA-BI(北野武)


本作は「北野武流映像世界」の中で異彩を放っている。特定的に選択された主題に対する観念的・形而上学的なアプローチが堂々と展開されているからだ。

そのテーマ性とは何か。

 それを一言で言えば、〈生〉と〈死〉の問題であり、その死生観であると私は考えている。

ある事件によって、車椅子生活を余儀なくされたばかりか、妻子にも見捨てられ、自殺未遂の果てに、なお〈生〉を繋いでいかざるを得ない宿命を生きる元中年刑事。

 彼の名は、堀部泰助。

 彼は自らの自我の拠って立つ安寧の基盤を構築し得ないまま、アマチュア画家としての「余生」を時間に結んでいくが、彼の描く子供のような有彩色で明度の高 い、暖色系の絵画のイメージと乖離するかのように、映像が記録する彼の表情には生気がすっかり削られていて、なお〈生〉を繋いでいく圧迫的な重量感だけが フィルムに刻まれているのだ。

 もう一人は、その事件によって、自らのプライバシーを優先したが故に、少年期以降の親友の刑事に車椅子生活を招来させたばかりか、犯人憎しの思い余った情動の、その抜け駆けの行動の暴発によって、結果的に、後輩の若い刑事を死に追い遣った挙句、自分の〈生〉の根柢を揺るがすほどの贖罪感に苛まれる中年刑事。

 加えて、彼には子供を喪った哀しみから失語症になっただけでなく、不治の病で幾許(いくばく)もない余命を生きる妻に対する思いの深さによって、遂には、「死出の道行き」を必然化させた流れ方を括っていく「生き方」=「死に方」を選択するに至った。

彼の名は、西佳敬。そして、彼の妻の名は美幸。

ここに、本作の中で極めて重要な会話がある。車椅子生活を余儀なくされた元中年刑事と、新婚早々の現役刑事である中村の会話である。

 「暇過ぎるのも大変だよ。時間潰しに絵を描いているんだけどさ。所詮、素人だよね。描くもん、なくてさ」

 この堀部の言葉に反応できない中村刑事は、微妙に話題を変えていく。

 「西さんから連絡ないですか?」

 しかし、堀部の問題意識のコアは、自分の〈生〉の有りようにしかない。

 「最近はないよ。以前にまとめて絵の道具を贈ってもらってさ、悪ことしちゃったんだけど。西さんも奥さんのことで大変なんじゃないのかな。本当のこと言うと、奥さんも、もう長いことないだろうしな。でも、考えようによっちゃ、俺より幸せだよな」

 これは、前者の元中年刑事が、映像の中で、その思いを表現した言葉。

 本作は、究極の〈生〉=究極の〈死〉の微妙だが、明らかに目指すべき方向性を異にする男たちが、対比的に描かれているのだ。これは、二人の人間の二人の生き方というより、私には作り手の主題の中にあったイメージ化した人格像の中の、その自我が分裂した二つの〈生〉の様態であるように思えるのである。

一切は自らの責任に帰する、という西の重い贖罪意識が、後輩刑事の若い妻への経済的援助や、堀部に対する様々な気遣いを継続させていくに至った。

西の心は既に固まっていた。妻の退院後、「旅行でもして下さい」と主治医に言われた通り、彼は覚悟を括った「死出の道行き」に打って出たのである。

 一方、車椅子生活に慣れない堀部は、西から贈られた画材セットを使って、これも慣れない趣味を持とうとするが、暖色系の絵画を描く彼の表情からは、一向に〈生〉を未来に繋ぐ者の意志が垣間見えないのだ。

 それも当然だった。退院後、堀部は子供を連れて妻に出て行かれたことで、自分が置かれた深刻な身体的、精神的状況を共有し得る、最近接の距離にいるパートナーを構築できないでいるのだ。一人、海岸に出て、車椅子の中から遠望する親子の親和力に、いつまでも未練を捨て切れない現在性を呪うばかりであった。

「だから『あれえ~?』って思ったんだけど。で、『キッズ・リターン』っていうのはやっぱりリハビリの映画でプラマイゼロのもんなんだけど、生きるとか死ぬとか。だから『ソナチネ』あたりまではこう、死ぬってことがあるんだろうけど、逃げていく死のような気がすんの。それで今回の『HANA-BI』は向かってったいう感じだね、生きると死ぬとを自分でこう決断つけに行ったっていうか。逃避したんじゃなくて向かっていく感じあるけどね」(「武がたけしを殺す理由・全映画インタビュー集」北野武著 ロッキング・オン刊 2003年)

 これは、北野武監督が吐露する、最も重要であると思えるインタビュー集からの抜粋である。

事故直後に発表して高い評価を受けた「キッズ・リターン」では、なお事故のトラウマのような記憶が張り付いていたので、〈生〉と〈死〉の危うい際に関わる 根源的テーマに対峙し得なかったが、3年余り経過して、そのテーマに少しは客観的に迎えるようになったとき、彼は本作への構想化に向かうことで、真っ向勝負の映像を回避しない「向かっていく感じ」の作品を構築し得たのである。

 「生きると死ぬとを自分でこう決断つけに行った」覚悟の映像であったが故に、本作が稀にみるほどに突き抜けた作品に仕上がっていたと思えるのだ。

 彼は観念としての〈死〉を絶えず意識しつつも、「今、ここにある」〈生〉を継続させる営為を繋ぎながら、少なくとも、その問題意識が飽和点に達する辺りで 映像化を試みることで、問題の根源に横臥(おうが)するものと対峙し、決して自殺という手段を選択しない人生を、なお繋いでいくことを括っているのだろう。

 本作の主人公は、〈死〉以外の選択肢を持ち得ない状況に自らを追い詰めて、それを遂行した。彼にとって、余命幾許もない妻との「死出の道行き」だけが、その曲線的な人生の到達点だった。

しかし作り手は、このような男の死に方の対極に、絵画によってのみ辛うじて〈生〉を繋ぐ男の人生を描き出すことで、作り手自身の自我を分裂させていった。車椅子生活を余儀なくされた男の人生がどれほど艱難(かんなん)を極めようと、この男は「死出の道行き」に旅立った男のように、簡単に自死を選択してはならないのだ。

 彼は睡眠薬自殺を図ったが、作り手はこの男を生き残らせたのである。なぜなら、この男は、作り手の「もう一つの分身」であるからだ。

 北野作品の中で画期点とも言える、このような「もう一つの分身」を作り出すことによって、どれほど厳しくとも、与えられた命を全うせねばならない運命を委ねられた男を作り出したという一点において、彼の表現への意志が、〈生〉に向かう未知のゾーンに踏み入る映像世界を切り開いていったのである。

稀に見る構築的映像に、私は最大級の賛辞を惜しまない。



少年時代(篠田正浩)


子供にも存在する「権力関係」を、成人社会のそれをカリカチュアライズさせながらも、そこで再現した関係構図がリアリティを持つのは、その「権力関係」がどこにも存在する普遍的な力学を持っているからだ。

 その意味で、本作はラストでの駅での送別でのシークエンスで表現された、主人公の叔父の台詞、即ち「『予科練の歌』でもいいから歌え。軍歌以外に他に歌を知らんがよ」と言って、「予科練の歌」を主人公への送別歌とするシークエンスの挿入を除いて、基本的に「時代」を借景しただけで、「時代」を描いた映画でも、「時代」の中の特殊な人間群像をテーマにした映画でもない。

 それは、もっと普遍的な関係についてテーマを限定にした映画である。

 そのテーマとは、「子供の世界における『権力関係』の様態」であり、「『思春期前期』の氾濫への戸惑い」と言っていい。

この映画には、4種類の少年が存在する。

 権力を失っても決して誇りを捨てなかった少年と、その少年を視認したことで、自分が失った誇りを土壇場で回復させた少年。

 そして、「権力関係」を戦略的に駆使し、自らが「権力」の頂点に立って、その関係構造を支配・維持する小利口な少年と、その他大勢の関係の力学に振れて動くだけの少年たち。

 この4種類である。

前二者の少年が中心となって描かれている本作の簡潔な梗概を書けば、以下の通り。

あと半年もすれば、10万人の死者を出した東京大空襲(1945年3月10日)という、未曾有の大戦災に遭う緊迫した戦況下で、小5の風間進二は、富山の伯父の家に「縁故疎開」(親類・知人を頼る疎開)することになった。

 いつの時代でもそうであるように、東京出身の進二は、唯それだけの理由で古典的ないじめに遭うが、その進二に親近感を覚え、私生活面で何かとサポートしたのは番長の大原武。

 ところが、学校内ではよそよそしい態度に終始するばかりか、威張って見せる武の「別人」ぶりを、進二には理解できない。

 進二は問いただした。

 「どうして大原君はこんなに優しいのに・・・どうして・・・」
 「いじめる言うがか?・・・分らんのう!分らんのう!」

 そう言って、進二の頭を押し付ける武が、そこにいた。問いただされたガキ大将も、自分の感情を把握し切れないで、彼なりの身体表現を展開するのみだった。

 このような時期の、このような感情の難しい機微を精緻に描き切ったという一点において、本作の評価は揺るがないものとなったと言っていい。

何より、「児童期後期」の特徴は「思春期前期」と重なっていて、同性・同年齢児によって構成されるミニ集団を作ることで、ミニ集団の枠外に存在する者への排他性を特徴づけ、そこには、固有の価値を持つ、相応の「権力関係」による一定の序列と役割分化が見られるだろう。

 ここでは、「児童期後期」の特徴が、「思春期前期」と重なっているという事実こそ重要である。即ち、この時期の男児の場合、身体の外形の顕著な変容によって自我が不安定になることで、自己コントロールが十全に作用しなくなるという由々しき事態が出来するに至るのだ。それは、身体の外形の変容が「思春期前期」のステージに踏み込んでいるにも拘らず、当該自我がなお、「児童期後期」のステージに捕捉されているからである。

 しかし、思春期の二次性徴として、精巣や副腎から分泌されるテストステロンなどの性ホルモンの分泌が活発化することで、精神面の不安定さが常態化されていくが、異性感情に大きく振れていく「思春期後期」の氾濫には届くことなく、未だ自我が、「児童期後期」のステージにあって、同性関係の延長線上で、「擬似恋愛」という未知のゾーンの只中をダッチロールしているのだ。

まさに、武の心理的混乱の正体は、彼の身体の変容が、既に「思春期前期」のステージに踏み込んでいるにも拘らず、その自我がなお、「児童期後期」のステージに捕捉されているという矛盾の発現だったと言えるだろう。

 学校内での、進二との「権力関係」の中においても、「思春期前期」のステージに踏み込んでいる武の「擬似恋愛」は、特段に「厄介」な光芒を放っていて、抑性の困難な感情に拉致されて当惑する外なかったのである。

 進二もまた、武の感情を充分に受容できないのは、同様に、異性感情に振れていくことのない「児童期後期」の幼児性を引き摺っていたからだ。

 「進二はお前のために話とるんじゃない。俺のために話とるんじゃ」

 武の放つ、この言葉の含意は重要だ。

 その体型の違いから既に声変わりを果たし、同年代の「児童期後期」の仲間たちを置き去りにして行った一人の少年、それが武である。この少年だけが、「思春期前期」に現象化する男性ホルモンによって引っ張られる感情に搦(から)め捕られていたのだ。そこに、「擬似恋愛」という未知のゾーンの誘(いざな)いによって、自分でも抑制困難な感情体系を引き摺っていたのである。

二人の少年の拠って立つ感情体系には、同年齢の枠組みの制約に収斂されない、「異文化」に近い世界の様態を露わにしていたのだ。ガキ大将の「権力関係」が及ばないテリトリー外で惹起した、外部暴力による進二の身に起こった危機を、「スーパーマン」の疾風の振舞いのうちに救った武にとって、進二と二人で収まる、写真館での「思い出のショット」は、殆ど「ハネムーン」の記念写真以外ではなかったのである。

 武の中の、「児童期後期」と重なる「思春期前期」の抑制困難な氾濫 ―― 汝の名は「擬似恋愛」なり。

人生論的映画評論の本稿では、私の「好みの問題」として、許容し難い「予定調和の感動譚」に振れる、ラストシークエンスの情感的軟着点を相当程度腐す厭味を書いたが、そこに至る心理の機微について、二人の少年の拠って立つ感情体系の微妙な交叉を、ここまで精緻に描き切った本作に対する私の評価は、それが100パーセントの文部科学省選定映画であることとは無縁に、「名画」と呼ぶにふさわしい内実を持っていたと認知するのに吝(やぶさ)かではない。



歩いても 歩いても(是枝裕和)


近年、私が観た邦画の中では、最も上出来の映像だった。

 映像全体から伝わってくる空気感と臭気は、私の体性感覚の内に微細な部分をも溶融して、老夫婦の加齢臭のみならず、阿修羅の異形(いぎょう)性まで吸収するに及んで、この作品が、「日常性下に嵌め込まれた非日常の情感濃度」をも映し出す映像であることを感受せざるを得なかったのである。

「ある夏の終わり。横山良多(りょうた)は妻・ゆかりと息子・あつしを連れて実家を訪れた。開業医だった父(横山恭平)と昔からそりの合わない良 多は現在失業中ということもあり、気の重い帰郷だ。姉・ちなみの一家も来て、楽しく語らいながら、母は料理の準備に余念がない。その一方で、相変わらず家 長としての威厳にこだわる父。今日は、15年前に不慮の事故で亡くなった長男(純平)の命日なのだ・・・」

これは、公式HPでのストーリーの簡潔な紹介。

テーマ性の提示の中で重要なのは、どこまでも老夫婦(恭平、とし子)と、次男家族(良多、ゆかり、あつし)である。彼らは共に、「非在の存在性」という人間学的なテーマ性を、何某かの重量感の誤差の中で、どこまでも固有な様態を内化させながら、意識の表層辺りで騒ぐ微妙な共存ラインの内に、そこだけはなお失えないもののように抱えているのである。だから私は、本作の基幹テーマを、「『非在の存在性』の支配力、その『共存性濃度』の落差感」という風に把握している次第である。

まず、次男家族の問題。

 子連れで再婚したゆかりは、かつてピアノ調律師の夫がいて、その夫と死に別れた後に、次男の良多と再婚するに至るという、それほど稀有なケースとは言えない環境下にある。

 また、一人っ子のあつしは、ピアノ調律師の父を尊敬し、その職業を自分の未来の夢とするような繊細な少年である。そんな繊細な少年が、横山家においてあるピアノを見て、その鍵盤をゆっくりと、繰り返し叩くシーンがあった。少年の心の中に亡父のイメージが深々と張り付いていて、父との思い出を消去できないで沈潜しているのだ。

 要するに、「グリーフワーク」(対象喪失による悲嘆を受容し、乗り越えていくプロセス)が自己完結できていないのである。その少年が、母(ゆかり)との会話の中で、父の思い出を否定するシーンが印象的に描かれていた。

 祖母に連れ立っての墓参の帰路での、小さなエピソードである。

 「昔チョウチョ採ったね、軽井沢で。パパと一緒に。覚えてる?」
 「覚えてない」
 「今度、パパのお墓参りも行こうよ」
 「どっちでもいい」
 「どっちでもってことないでしょ」

 息子の心を正確に斟酌(しんしゃく)している母は、息子の肩を優しく抱くだけで充分だった。母に肩を抱かれても照れを感じない思春期前期の少年だったが、それでも内側に潜む感情を隠すほどの防衛的自我は育っているのだ。

印象深い母子の会話が、就眠前の横山家の一室に用意されていた。

 「さっき変だったね、お婆ちゃん」とあつし。

 後述するが、「お婆ちゃんのエピソード」とは、事故で喪った長男の純平の「生き返り」と信じて、部屋に舞い込んだ蝶を、祖母のとし子が必死に追い駆け回る話である。

 「お婆ちゃんにはそう見えたのよ」と母のゆかり。
 「もう、いないのに?」
 「死んじゃってもね、いなくなっちゃうわけじゃないのよ。パパもちゃんといるのよ、あつしの中に。あつしの半分はパパで、半分はママでできてるんだから」
 「じゃあ、良ちゃんは?」
 「良ちゃんはね、これから入って来んのよ。ジワジワーっと」

 再婚相手への愛情が結ばれてきてもなお、母のゆかりの中に、決して簡単に消してはならないと念じる、ピアノ調律師の亡夫への思いが心地良く漂流しているのである。彼女もまた、「非在の存在性」に支配されているのだ。寧ろ、それを捨てない思いの中で、良多との「共存」を少しずつ開き、「普通」の自然の律動によってその濃度を深めようとしているのである。

次に、その横山家の老夫婦の心の世界を考えてみよう。

 かつて開業医を営んでいた横山恭平は、パターナリズム(家父長主義)の申し子のような頑固者だ。

 そんな男にとって、長男純平の死は、一人の少年の命を助けた勇気ある行為の忌まわしき結果であり、その事実が開業医としての後継ぎを喪った辛さを忘れ難いものにしているが、まさにそれが、「あってはならない事態」による「非在の存在性」の大きさを形成しているように思えるのである。まさにその一点において、妻とし子の内側に深々と澱んでいる、「非在の存在性」の支配力と分れていると考えられるのだ。

 相当の長い年月を要するだろう、妻のグリーフワークの重量感に比較すれば、引退した開業医のグリーフワークの深刻度は、長男純平によって命を救われた少年が青年に成長している現在に至っても、その「感謝と報恩を身体化するための訪問」を強いられる、「非日常のセレモ二」の必要度において決定的に分れると言えるだろう。

横山恭平にとって、明らかに、「感謝と報恩を身体化するための訪問」を強いられる青年(良雄)の顔など見る気にもなれないのだ。だから彼の眼から見れば、誠実な振舞いを身体化する青年がどれほど「感謝と報恩の非日常のセレモ二」を繋いでも、「あんな下らん奴のために、何で、よりによってウチのが。他に代りは幾らでもいたろうに」という、差別意識丸出しの傲慢な感情しか持ち得ないのである。

 「お前はもう来るな」というところが、彼の本音なのだ。しかし、この喰えない男には、この言葉が吐き出せない。なぜか。邪気丸出しの男のそれと比較して、もっと喰えない妻のとし子が、青年に対して、「感謝と報恩の非日常のセレモ二」を必要としている事実を認知しているからだ。

「あの子、前の晩、珍しく一人で泊まってった。あの日、玄関で靴磨いていたのよ・・・そしたら急に『海、行って来るって言って・・・』・・・『気を付けてって言って』・・・台所から・・・奇麗に磨かれた靴だけが並んでたのよ・・・その景色がね、眼に焼きついちゃって・・・もうちょっと早くあたしが声かけてればね・・・無理して助けることなかったのよ・・・自分の子供でもないのに」

 独り言のような母のくぐもった声が、突然、封印されることのない感情を押し出していた。

本作では、家族の中に微妙な落差を持って、それぞれに「非在の存在性」の支配の様相を身体化されていたが、「感謝と報恩の非日常のセレモ二」を義務づけられている青年(良雄)の心の辛さについても触れておこう。彼こそ、本作の最大の受難者であると言えるからである。

 青年が必死に演じ切った末に、とうとう足が痺れて自力で立ち上がることさえできなかった、「感謝と報恩の非日常のセレモ二」のシーンを再現してみる。

 「じゃあ、今年で卒業だ。大学も」と長女のちなみ。
 「ハイ、お蔭さまで」と良雄。
 「就職は?」とちなみ。
 「ハイ、マスコミに行きたかったんですけど・・・どこもダメで」
 「あれ、学校は?お芝居の?」と母のとし子。
 「すいません、それはおととしで止めちゃって・・・」
 「そうだったの。もったいない」と、とし子。
 「母さん、去年も同じこと言ってたわよ」とちなみ。
 「そうだった?」と、とし子。
 「今、小さな広告の会社でバイトしてるんでそれでもいいかなって・・・」
 「いいじゃない、ねぇ」と良多。

 家族に相槌を打とうとするが、誰も反応しない。

 「広告って言っても、スーパーのチラシとか、そういうやつですよ・・・」と良雄。
 「試験受けたの?」とちなみ。
 「いえ、そういうあれじゃなくてとりあえず、このままバイトしてみようかなあって・・・」
 「まあ、何にせよ、人間、元気なのが一番だから」とちなみ。
 「元気くらいしか取り得がなくて。ハハハハハ」と良雄。

 最後に青年は、自嘲するような薄笑いを捨てていった。そこに、気まずいが「間」ができる。青年は、この「間」の意味が理解できていた。だから、セレモ二の本質に心を投げ入れていくしかなかった。

 「あの、本当にあのとき、純平さんに助けてもらわれなかったら、今の僕はここにいないので、本当に申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。純平さんの分までしっかり生きますから」

 深々と頭を下げる青年。セレモ二を閉じる必要があった。線香を上げるのだ。

 「それじゃ、失礼します」

 そう言って、青年は立ち上がろうとしたとき、足が痺れて転倒してしまった。良多が青年に肩を貸して、玄関まで送っていった。

 「まだ25じゃない。頑張れば、何だってなれるから」と良多。
 「人生、先が見えちゃって」と良雄。
 「来年もまた、顔を見せて下さいね。約束よ。必ず、顔を見せて下さいね。待ってますから」

 恐らく去年もそうだったように、今年もまた、母は「約束」という名の勅令を下達したのである。

 「・・・ハイ、それじゃ、失礼します」

 少し間をおいて、青年は答えるが、必死に笑顔を崩さないでいた。「今年のセレモ二」が終焉しないからだ。或いは、青年は大学を卒業する今年を区切りに、「感謝と報恩の非日常のセレモ二」を自己完結しようと思ったのかも知れない。

 もしそうであるなら、それを見透かしたかのようなとし子の「約束」の強要は、他に選択肢を持ち得ない青年にとって、ひたすら「受難」を受け入れるだけの非日常の時間が継続されてしまったことを意味する。青年の非日常の時間は、なお「自己未完結」の見えないゾーンに拉致されたままであるということだ。

 「あんな下らん奴のために、何でよりによってウチのが。他に代りは幾らでもいたろうに・・・あんなに図体ばっかりでかくなりやがって。あんな奴は生きていたって、何の役にも立ちやしないよ」

 これは青年が帰った直後の、父恭平の反応の全てである。

考えてみればいい。

 今でこそ25歳の肥満を持て余す成人になっているが、彼は、このセレモ二を15年間も続けているのである。事故当時の年齢は、高々10歳の少年だ。まだ小学生である。恐らく成人するまで、彼は親に随伴して横山家を訪ねていたに違いない。やがて物心ついて、遊びたい盛りに、「命の恩人の命日」に限って、「助けられたお蔭で、立派に成長した姿」を、横山家が一堂に会する場所の中枢に引き立てられるかのようにして、丸ごと見定めてもらいに行くのだ。

 しかし、人間は残酷だ。

 「身過ぎ世過ぎ」に関わる抜きん出た才能に恵まれなかったに違いない青年は、正坐しても立ち上がることができなくなるまで、その肥満体を、「恩人の家族」の前で晒し続ける以外の選択肢を持ち得ないのである。しかも、この苛酷なセレモニーを、恐らく、横山家の老婆が逝くまで継続する義務を負っているのだ。「神との約束」を果たさねばならないからである。

 青年がいつの日か所帯を持ったら、その奥さんの人間評価が下される「前線」にあって、青年は、その「幸福ぶり」を過剰にアナウンスすることすら許されないであろう。「自分一人の幸福の占有」を語り過ぎる自由が与えられず、ひたすら、「純平さんに助けてもらわれなかったら、今の僕はここにいないので、本当に申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで一杯です」などと表白し続ける以外にないのだ。

 これは、形を変えた精神的拷問である。その精神的拷問を時間限定で受容する、「命日」という名の重い一日は、こうしてこの日も過ぎていった。

私は、この由々しきシークエンスを精緻にまとめあげた、是枝裕和監督の手腕を高く評価する。

「ワンダフルライフ」
然るに、私の「好みの問題」の偏頗(へんぱ)性に起因するのかも知れないが、多くの人に観てもらいたいと思わせる、これほどの映像を創作できる技量を持ちながら、なぜこの作り手は、それまであまりに観るに堪えない凡作、駄作を作り続けてきてしまったのか。

 「ワンダフルライフ」、「誰も知らない」、「花よりもなほ」、更に近作の「空気人形」という著名な作品に限って言えば、その映像的完成度において、とうてい秀逸なデビュー作や本作に及ぶべき何ものもなかった。

 死後の世界で戯れる愚昧さを晒すことで、完全に情感系映像の時流に合わせる駄作を放ったらと思ったら、社会派の作品を作る覚悟(逃避拒絶)も胆力(恐怖支配力)も感じられず、時代を鋭利に切り取る状況感覚も大甘な凡作を繋いでいって、海外での過剰な評価とは無縁に、一陣の突風によってあっさりと非武装の被膜が剥がされてしまうような、中途半端な理念系の映像作品を世に放ってきたというのが、正直な私の実感だ。

恐らく、この作り手には、シビアな社会派作品を創るに足る、炸裂する「狂気」のような何かが欠けているのだろう。それがエリート作家の脆弱性に起因しているのか否か、私には分らない。ただ多くの場合、エリート作家の脆弱性を隠し込むために、人格総体の統合性のうちに内化されたと信じる「イデオロギー」に身を預ける方略が有効であるらしい。本作の秀逸な出来栄えを観て、「分」を逸脱しない、自分のサイズを弁(わきま)えた映像作りの大切さを客観的に再認識させられる思いであった。





俳優たちの想像以上の素晴らしさ。主人公の「二つ目」の役者(国分太一)は、「間」の取り方に素人っぽさが感じられたものの、間違いなく、最優秀主演男優賞の表現力を見せていた。中でも、伊東四朗の「火焔太鼓」は古今亭志ん生(5代目)を彷彿(ほうふつ)させていて、驚嘆させられた。こちらも間違いなく、最優秀助演男優賞の表現力。子役の落語は信じ難き程の天才性。俳優たちへの落語監修が余程優れていたのだろう。

本作は、今昔亭三つ葉という「二つ目」の噺家(はなしか)が開いた「落語教室」を介し、自分の落語世界の構築を志向させる反面教師とする時間の中にあって、その教室に通うヒロイン、香里奈演じる十河五月の役割設定の決定力によって成立する作品であると考えるので、ここでは、彼女の心象風景を中心に言及する。

私がよく言う言い方だが、人間は自分の中にあって、自分が嫌うものを相手の中に見るとき、その相手を間違いなく嫌うだろう。

十河五月は、1年前に別れたというかつての恋人の中に、その心理の暴れた様態を見ることで相手を嫌悪し、そして、何よりそれ以上に、相手も同様な感情を彼女の中に見て、結果的に彼女を嫌って去って行った。そこに、自分の中にあって、自分が嫌うものを相手の中に見るときの典型的な別離のパターンがあると言えるだろう。

 映像に印象深く映し出されたその尖りが生来的なものなのか、或いは、そこにしか逢着し得ないだろう痛々しき失恋によって、より悪化した性格傾向を形成してしまったのか、詳細は不分明なのだが、少なくとも、そのような尖った性格が対異性観において集中的に表現されている描写を見る限り、前者(生来的)をベースにした、後者(失恋経験)による加速的変形化 という心理文脈が的を射ているように思うのだ。

 即ち、彼女の尖りは、自我をこれ以上傷つけたくないと深層下で要請する、「プライド防衛ライン」に関わる一種の自我防衛であると言えるだろう。

 従って彼女のケースは、自らを敢えて尖らせる身体表現によって、自分が嫌悪する攻撃的な傾向を有する男性を、予(あらかじ)め排除する選択的行為を遂行したと考えられるのである。

以上の把握を前提にして彼女の性格を考えるとき、観念的には自然に受容できるだろう。なぜなら彼女の場合、三つ葉から贈られた「大吉」のおみくじ付きのホオズキに柔和な表情で水遣りをするワンカットに象徴されるように、映像で映し出されたほんの小さな描写をきちんとフォローしていくと、家庭の中での裸形の自我は、ごく普通の適応力を備えた、清浄な心を持つ温和な女性の印象を受けるからである。真面目なのだ。臆病でもあると言ってもいい。自我防衛意識が過剰なのである。

 映像は、そんな彼女の欠点を正直に写し撮っていた。

 彼女にとって、滑舌を鍛えるため、恥を忍んで「落語教室」に参加した、プロ野球解説者である湯河原の嘲罵は、「落語教室」がストレス発散の格好の空間に成り果てている現実を証明する何かであったと見透かしたのだろう。舌鋒鋭い彼女の手痛い一撃が、仮に、形骸化しつつあった「教室」の近未来のイメージを憂慮するが故の難詰(なんきつ)だったにしても、そのような直接的な言葉の連射によって、同様にシャイな中年男を傷つける行為の持つ怖さに、彼女自身が鈍感であるはずがないのだ。

 それでも、彼女は難詰した。

 そして、中年男を激昂させながらも反撃されることがなく、その場を退散させる棘を持つ彼女の尖りは、同様に「落語教室」の主催者であるプロの噺家に対しても、容赦なく向けられたのである。

 プロ野球解説者を退散させたその日は、都電荒川線の沿線で、「トカワクリーニング店」という看板を出す自宅で、健気に働く彼女に対して、「大吉」のおみくじ付きのホオズキが贈り届けられた直後の「落語教室」の特殊空間であった。しかし、それを受け取って小さな笑みを零した彼女は、その心からのプレゼントへの礼を、当の本人に言うことなく、恰も無視するかの如く遣り過ごしてしまったのだ。

 当然、「三つ葉」という芸名を持つ、二つ目の噺家には面白くない。

 彼女の訪問を待って落ち着かない様子を示した態度は、「純情一直線」という感じだったが、あろうことか、訪問するなり、いつものつっけんどんな彼女の態度には全く変化が見られないのだ。

 この一件は、三つ葉の機嫌を損ねるというより、彼女に対する彼の対応処方を固めてしまうほどのリバウンド効果を持ってしまったと思われる。爾来、この一件が明らかに影響して、かの悲哀なる噺家は、「落語教室」に対する特段の関心を持ち得なくなり、遂に決定的な破局を迎えるに至ったのである。

 そのエピソードに触れる前に、映像における、三つ葉の女性との絡みを確認しておこう。と言っても、特定的な恋人を持たず、年相応の恋愛遍歴とも無縁に見える男に、特段の女性の存在が眩(まばゆ)く囲繞(いにょう)している訳ではない。


 祖母の茶道教室の弟子である、郁子という女性に淡い思いを抱いていた三つ葉だったが、彼女から歌舞伎を誘われ、嬉々として金策し、なけなしの金を下ろすことで、何とか二人分のチケットの購買に成功したまでは良かった。

ところが、二つのベンチを挟んで座る、憧憬の的であった女性からの結婚報告によって、あえなく失恋するに至ったのだった。十河五月とのホオズキ市へのデートは、郁子との失恋の直前に当たるものだったので、五月への関心は異性意識としてのそれではなかった。これは、ホオズキを買うことなく入った蕎麦屋での、二人の会話の中でも充分確認されるものだった。

 彼女に郁子の口説き方を乞う噺家の態度を見る限り、五月の存在は、「落語教室」の一人の生徒という価値を大きく超えるものではなかったのである。

 ところが、件の蕎麦屋で、三つ葉は五月の涙を視認してしまったのだ。失恋経験を語る彼女の苦悩を感受したとき、常に尖って見せる彼女の強がりの内側に潜 む、「女らしさ」を思わず晒してしまう姿を目の当たりにして、三つ葉の中で、彼女に対するイメージの変容が起こったのである。

 それでも、その変容は彼女の人格像を決定的に変えるものにはならなかった。その直後に、三つ葉が贈ったホオズキに対して、密かに期待した彼女からの返礼がなかったからだ。ホオズキを贈ったとき、三つ葉の内側に、彼女を一人の異性として見るに足る、未だ小さいが、しかしその関係の継続性を通して、特定の感情への目立った変容を惹起させる可能性が充分にあっただろう。

 結果的に、それが惹起しなかったのは、明らかに五月の側に原因があるに違いないが、彼女にいつものつっけんどんな態度を延長させることのない、男サイドからの柔和なフォローが媒介されなかった事実にも原因子の一端があると言っていい。三つ葉もまた、五月と同様に、「しゃべれども しゃべれども」相手の心の奥の深いところに届くだけの、気の利いたスキルの持ち合わせがないのだ。と言うより、二人とも、肝心の本音を隠すスキルのみを育ててしまっている分だけ、常に「恐怖突入」を回避させるほどに臆病であり、自己防衛的であり過ぎたのである。

 要するに、対異性観に関する限り、二人の「プライド防衛ライン」が必要以上のバリアの広がりを見せていて、相手が軽々と侵入できる隙間を作り出せていないのだ。とりわけ、女の場合はそうだった。

 この二人は「ラインの攻防」というゲームを、いかにも辛そうに、その固有の時間の内に繋いでしまったのである。「ラインの攻防」というゲームは、実りを手に入れられなくなると、いつしか疲弊感累加させ、徐々に当初の活力を喪失していく。まさに、この二人のケース はその典型だった。対異性観に関する限り、二人はあまりに酷似してしまっていたから、そのラインを抜けていく突破力を容易に構築し得なかったのである。

 「一門会」の主催によって、落語教室の開催の延期を告げに来た三つ葉は。十河五月から「落語教室」の発表会を開くことを求められたことがあった。

 「あのな、何で来てるんだ?落語教室」

 三つ葉はこの直接的な表現によって、発表会を求める五月の思いを踏み躙(にじ)ってしまったのである。そして遂に、屋台での決定的な確執を生んでしまったのである。

 そこで作り出されたのは、生産性のない尖った会話のみ。

 「最初からやんなきゃいいじゃない。バッカみたい」と十河。
 「そんなバカに教わってるバカは誰だ。落語やったからって性格変わらないぞ。どうなりたいんだ。好かれたいのか?感じのいい奴だと思われたいのか?」
 「誰にも好かれようとは思っていない」
 「誰にも好かれたくないんだろ?好かれようって態度か、それが!猫だってそうだろ、懐いてみせなくて、誰が撫ぜる!」
 「誰が撫ぜてくれって言った?」
 「そんなんだから振られるんだろ!別れた男の悪口を俺に言うな!」
 「そっちが聞いてきたんじゃない!」
 「聞いてない!聞きたくない。お前、一生そのままだ。やな奴だ。野良猫だ!」

 「野良猫」とまで言われた女は、もう男との修復の余地を残さないほどに、内側にストックされたネガティブな感情を吐き出してしまった。

 その不貞腐(ふてくさ)れた表情とは裏腹に、彼女なりに「会話力の獲得」を目指し、真剣に落語の演目を覚えようとする心情を起点に、「落語教室」にささやかな自我の安寧の基盤を保持しようという思いを理解できない三つ葉への反発が、ここで倍返しになって現出してしまったのである。

 三つ葉もまた、感情をストレートに表出しない五月の態度に苛立つばかりなのだ。過剰な自我防衛の戦略として、不必要なまでにバリアを構築する彼女のプライドラインの心理を、当然の如く、彼には読解できていない。

 「暇つぶし何かじゃないわよ。皆、本気で何とかしたいと思ってる。今のままじゃ、ダメだから、何とかしようと。何でそれが分らないの」

 「落語教室」の中断を三つ葉から告げられたときの反発を見ても分るように、彼女は本気で教室に通い、本気で演目をマスターしようとして、自宅で呪文のよう に暗唱していたのだ。ところが、このような真情を吐露しながらも、「落語教室」の継続に強い情感的な反応を見せない彼女の態度を、男は額面通りに受け取ってしまうのである。

 言ってみれば、ラインに関わる齟齬(そご)を生み出してしまう二人の差は、人の心の見えにくい襞(ひだ)の部分への想像力の、そのネットワークの支配域の立体感覚的な把握能力の差である。

 極めて微妙なラインの攻防が、時として、不必要な確執を作り出してしまうのは、顕在化された表現の影響力に振り回されやすい男の、生来的な率直さが簡単に軌道修正されにくい内側の、目立った屈折を経由することのないフラットな単彩系に起因しているとも言えるのだ。実はその辺りが、この男が依拠する「古典落語」という「絶対防衛圏」への感覚的な拘泥(こうでい)とは裏腹に、その「芸」を内化し、深化させていくに足る決定的なものの不足を露呈させてしまう脆弱性の根源にあるものなのだろう。

 人生経験は単に「量」の問題ではなく、「質」の問題であるということの実感的な学習が、この男には欠如していたのだろう。

 それを知悉(ちしつ)するからこそ、彼の師匠は彼の芸の底の浅さを問題にしたのだが、そこで求められたのは、まさに主体がその根柢から揺さぶられ、その閉塞を突破するときの真実の叫びを上げるに相応しい人生経験の、蛇行的で紆余曲折を経由するような何かとの内的格闘の固有な時間であったに違いない。

 底を抜けていくほどの何かを必要としたとき、まさに最適のタイミングで、「銃後の手習い」としての「落語教室」が立ち上げられたのである。しかし、「芸」の「質」の内的向上を求める男の精神世界の振れ方と、軌を一にするように立ち上げられた「落語教室」の存在感が、少しずつ変容していくときの手応えによって、男の中で経験的に学習できた意味を真に内化していくには、「落語教室」に対する自覚的な継続力を不可避としたはずなのだが、それを欠如させた男には、なお多くの経験知の累加が求められていたと言えるだろう。

 然るに、その貴重な教室の中断を想念させた男の内側には、女が身体表現する外形的なイメージラインに捕縛され過ぎていたのである。女もまた、何かいつも肝心なところになると、感情を拡散させる男のネガティブな心理の文脈が測り切れないでいた。かくて二人は、「プライド防衛ライン」の攻防を延長させてしまったのである。

 この二人は、自分の感情を相手に上手に伝えられない不器用さという点では共通しているが、相手の男にプロとしての強力な向上心を感じ取っていく中で、この男が自分に内在する小さなトラウマと化した対異性観の範疇に当て嵌まらない、ある種の骨太の精神を保持し、同時に、ホオズキを贈る優しさを持つ人格の主であるという把握を持つに至りながらも、前述したように、自我防衛の過剰な女はラインの攻防を継続させてしまったのだ。

 相手の人格に見る希少性の発見こそ、何より代えがたいものであることが実感し得たに違いないのだが、しかしそのことが、却って二人のスタンスを最近接させる上で一つの障壁になってしまったのである。

 それでも女は、彼が演じた「火焔太鼓」を自分の演目にしたという行動選択に現れているように、自分の内側に大きな風穴を開ける勇気を捨てていなかった。恐らく、彼女は単に、「会話力の獲得」を学習するためだけに「落語教室」に通って来たのではない。自分の青春の現在をネガティブに捉える発想からの突破口の契機として、教室という特定的空間が選択されたのであり、そこでの小さな関係の構築によって、少しでも自分の現在の時間を動かしたいという願望が、その 根柢において深々と横臥(おうが)していたのである。

 そして、その感情を最終的に束ねたとき、「火焔太鼓」を演じ切った女の中で何かが弾け、何かが大きく動き出していったのだ。この変容の決定力が、ラインの攻防を継続させてきた固有の時間のバリアを壊しにかかっていった。

 ラストシーンの意味は、ラインの攻防というゲームの終焉を映し出したものであって、映像の軟着点が、もうそこにしか向かえない必然性を、それ以外に考えられないイメージラインの内に検証したのである。やはり、この国の女は強かった。

娯楽映画の面白さの中に、人間の心理の機微の振れ具合を精緻に描き出した本作は、極めて完成度の高い人間ドラマに結実したのである。



乱れる(成瀬巳喜男)


これは、18年間もの間、自らが拠って立つ物語の稜線が繋げなくなった危機に立ち竦んだとき、それを自らの意志で括るように捨て去って、そこに生じた空洞感を埋めるべく魔境の誘(いざな)いをも振り切って、なおそこに絡みつく思いを、遂に拾えなかった女の悲劇を描いた痛烈なる一篇だった。

 女の哀切を決定づけたのは、女に絡み付いて離れられない、男の哀切がそこにべったりと張り付いていたからである。二人の哀切が極まったのは、一つの意思に噴き上がっていくような感情のうねりが、そこに身体化されなかったことと関係するだろう。

 なぜなのか。それは、女がそこに身を預けて築いた固有の物語の継続力が、遂に自壊しなかったからである。

 確かに女は、その物語を自ら捨て去った。しかしそれは、女を包む状況下で物語の継続力が拒まれて、それを繋ぐ稜線が切れてしまったとき、女自身が認知せざるを得なかった故であって、決して女の内的状況の変化が生みだしたものではないのだ。できれば女は、物語の稜線をもっと伸ばして、そこに一定の自己完結を果たしたかったであろう。それが叶わずに、女はやむなく物語の終焉を告げたのである。

 物語の稜線がこれ以上伸びることのない現実の認知が、女をして、「自己犠牲の物語」という虚構を、家族の前で堂々と宣言させるに至ったのだ。しかしそれは、誰も傷つけることなく物語を終焉させたいという女のギリギリの括りであって、まさにそれ以外にないマニフェストに結実したということである。

 それでもなお、女の中で物語は死滅していなかった。女は18年間かけて守り続けた物語を形式的に捨てたが、内面的には決してそれを捨てていなかったのである。これが女の悲劇を招き、そこに男の悲劇に繋がった。

 では、あのとき女はどうすれば良かったのか。何ができたのか。男を受け入れることが、女に果たして可能だったのか。そのことを考えるには、まず女の物語の内実について、私たちは把握しなければならないであろう。
 
 女の物語。それは、一体何だったのか。

 「僅か半年間の共同生活を経たのみで夫を失って以降、そこに残された、未だ思春期に届かぬ子供でしかない義弟を立派に育て上げ、一人前に成長するまで庇護 し続けることと、勤労奉仕で知り合ったしずに息子の嫁として見初められ、そこで婚姻を結んで入籍した当家である森田屋商店への義理から、当店を酒屋として再興していくということ」

 これこそ、女の顕在的な意識裡に構築された物語であると言えようか。

女はこの物語をバックボーンに、艱難(かんなん)な時代を生き抜いてきた。その間、女に対して義父母の視線は、一貫して柔和なものだったと推測できる。だからこそ女は、焼け跡のバラックから我が身一つで森田屋の看板を見事に立ち上げて、その再興に成就できたのであろう。そのことで、義父母からの感謝の思いを存分に享受して、それが女の物語の継続力を支えたものと思われる。

 やがて義父が逝去し、久子、孝子という義妹が嫁ぎ、そして最後に義弟の幸司が東京での就職を固めていった。今や森田屋には、隠居状態の義母が居るのみ。その中で女は一人、酒屋を切り盛りしていくのだ。女の物語は、半ば自己完結を遂げる流れを決定づけたように見えた。

女の物語を支えた倫理観は、報恩の念と責任感に尽きるであろう。この女は、古い時代に生きた、古い時代の規範と倫理を既に身に付けてしまっていて、そこには内側の秩序を破綻させていく因子が殆ど見られないのである。しかし、女のそのような磐石だと信じた物語が、殆ど報われたかに見えたとき、女の世界の内外から、思いもかけない事態がほぼ同時期に出来したのである。

 外的変化は、スーパーの進出によって商店経営が危機に晒されたこと。内的変化とは、義弟との関係スタンスの崩壊であった。前者は、どこまでも未亡人としての立場でしかない女主人の現状継続力の根柢を揺さぶって、女の恒常的安定の基盤を崩しにかかってきたのだ。酒屋をスーパーに衣替えするという、森田家血縁内の功利主義の前で、女はその存在自体を弾かれてしまったのである。それは、女を支えた物語の、一つの中枢的な柱が崩壊することを意味していた。女の心の内側に深々と打ち込まれたパイルが、音を立てて崩れ去ってしまったのである。

 そしてもう一つ。

これは言わずもがなのことだが、義弟の幸司からの告白によって、それまで素朴に信じてきた関係幻想が壊れてしまったのである。とりわけ、義弟に良い嫁さんを見つけてこの家から独立するか、或いは、酒店を継いでいくという、女の義弟の存在に対するイメージの崩壊は決定的だった。物語は壊れて、女の中に空洞感が生まれた。この空洞感は、女を存分に甚振(いたぶ)って止まない棘となった。

 女の相対的に安定した日常性もまた、大きく揺さぶられていく。女は非日常の世界に捕捉されてしまったのである。その結果、女は非日常の世界を、自らの意志で断ち切ることを決断した。それは物語の崩壊を女が認知した証左でもあると言えるが、しかし、義弟との決別を決断した行為それ自身は、女の中でなお捨て切れない物語の健在性を検証するものであったとも言えるのだ。

 女は義弟との関係を、その関係の現状維持によって敢えて縛ろうとしたからこそ、森田家を離れ、同時に義弟との縁を切ることで、その固有な関係を物語の世界に閉じ込めようとしたのである。女は捨て去って、振り切って、なお自分に縋りつく者を振り切って、そこに深い哀切の念を抱きつつも、それを振り切ることで、決定的に物語の過激な更新を選択しなかったのである。それを拾おうとすれば、容易に拾える至近距離にありながら、女は遂にそれを拾うことを選択しなかったのだ。

 女はなぜ、それを拾わなかったのか。拾えなかったのである。

なぜか。女の中に、義弟に対する優しい思いやりは健在だったが、しかし義弟を異性として意識し、それを義弟が求める辺りにまで、異性的感情の形成が全く届いていなかったからである。或いは、より多くの恒常的に安定した時間を作り出すことによって、二人の「感情の落差」が縮まる可能性が全くないとは思わないが、少なくとも、彼らが置かれた状況下で、自分を思う義弟の感情ラインに、自分のそれを合わせていくのは極めて困難であったに違いないであろう。

 女は、義弟を無碍(むげ)に振り切れなかった。女は、義弟の前で涙すら流したのである。それは義弟の感情ラインに女のそれが辿り着いたからでなく、寧ろ、幼少時より庇護してきた義弟の一途な性格に対して、深い哀感を抱いたからであると思われる。

 しかし義弟は、義姉の感情を明らかに読み違えてしまった。読み違えていなかったとしたら、彼はあまりに義姉を愛し過ぎたため、溢れ返る内なる感情を自ら支配し、制御することの能力を手に入れてなかったのである。恐らく、そういうことなのだ。女の中で泡立った感情の行方が全く定まらない時間の中で、男の噴き上がる感情のうねりだけが、女の内的基盤を削り取ってしまったのである。

 男の感情のうねりは常に女のそれを大きく上回ってしまったので、女には、その感情に追いつく時間すら与えられず、常に危険な刃を突きつけられた不安定な状態に置かれてしまっていた。それは殆ど、精神的拷問と言って良かったかも知れぬ。女は絶対的に置き去りにされる運命から、遂に脱出できなかったのである。

 思うに、異性間の悲劇の殆どは、「感情の落差」に起因するであろう。一方の感情が他方の感情をいつも相対的に上回っているとき、過剰な感情の者だけが声高になってしまって、しばしば、相手の感情の不足を嘆いてしまうのである。残念ながら、「感情の落差」を生み出さない関係の絶対的な保証は、絶対的に存在しないのである。だからそこに、声高になる者の涙が溢れ出て、自分が決して失いたくない場所から遠ざけられてしまうのだ。

 本作の男女が受けた裂傷はあまりに無残であり過ぎた。二人の「感情の落差」が決定的であり、しかもそのことの正確な認識に、男の自我が届いていなかったのだ。それが、予定不調和の悲劇を生むことになってしまったのである。男は女に物語の転換を求め、女は男に物語の継続を求めてしまった。

 女の中で、「義弟」という関係の役割でしか捉えられなかった、年少の若者による唐突の求愛を受容するには、物語の決定的な転換を内側で劇的に遂げる必要がある。何よりも、義弟と肉体関係を持つことによって生じる、世間や身内の厳しい視線を突き抜けるだけのパワーと、そのパワーを裏付ける内側の感情の継続力の保持が不可避であるが、女にはそれが不足していたのである。その不足を感じつつも、女はなお自分に迫る男の感情を冷酷に切り捨てられなかった。

 だから女は、男との一見、「道行き的な列車」に束の間付き合うが、当然の如く、男を自分の実家にまで連れて行くことなど思いも寄らなかった。女は男を途中の温泉駅で下車させて、自らが導いて、一軒の宿にその身を預けるという行動を選択した。しかし、男の優しさだけは受容するが、男の身体を受容する訳にはいかなかったのである。

 女はほぼ確信的に、男を清水の実家に戻すつもりだったのだ。それも限りなく男の自我を傷つけないようにして女がそれを断行するには、経験不足であり過ぎた。

 だから女は、男の身体を拒めない感情を、溢れる涙で表現してしまったのである。男は 女の涙の意味を、そこで初めて認識してしまったのだ。自分の執拗な求愛が、義姉を苦しめる最大の原因になっていることを。男はもう、何もできなくなってしまった。死ぬこと以外に。男の死が限りなく自殺に近いそれであると、観る者は、男の煩悶の中に読み取ることができるであろう。

義姉を演じた高峰秀子のその抑制された圧倒的な演技が、ここでもまた、私の心を鷲掴みにして離さなかった。同時に「若大将シリーズ」で人気を博していた頃の加山雄三の、俳優としての力量が試された一篇でもあった。その力量が本当に開花したのは、まさにこの成瀬の晩年に近い一作だった。

 本篇での加山雄三の演技力は極めて拙いが、しかしその拙さが、ここではとても素朴に表現されていて、それが却って、忘れ難い傷心の青年のキャラクターに溶け込んでいたのだ。彼の俳優としての代表作である、と私は勝手に思っている。そのようなキャラクターを造型した成瀬巳喜男の演出の冴えが、ここでも光っていたからであろう。





「木村さん、ストレス溜まってるんですね」
「ハイ、すいません」
「じゃ、嫌なことも全部吸い取っちゃいましょうね」
「ハイ。昔の男の思い出とか、そういうの、全部吸い取っちゃって下さい。男に捨てられた思い出なんですけど。しかも、4人分なんですけど」
「ただの冗談ですから。無理ですから」

これは、消化器科での腸内清浄のシーン。

「出口なし」の閉塞感を象徴する、この冒頭のシーンのインパクトは、恐らく映像総体を貫流する「毒素」と化している。若い女優に、本人の糞尿を撒かせるシーンばかりか、「全部吸い取っちゃって下さい」という台詞を言わせる、この冒頭のシーンの「毒素」によって、本作が、邦画のフィールドのうちに、過剰な感傷と欺瞞を垂れ流してきた文脈と切れていることが判然とするだろう。

 恐らく、奇麗事で塗りたくってきたこの国の映画は、この国の若い気鋭の映像作家たちから、このような世界に向かわざるを得ないだろうと思わせる、ごく普通に受容し得る程度の「毒素」に満ちた映像をも擯斥(ひんせき)してきた、必然的なバックラッシュの逆風を、今や、時代の報いの如く受けているのだ。本作は、奇麗事で塗りたくってきた、この国の映像に注入する一服の「毒素」だった。

本作のヒロインである佐和子は、自分は「中の下」であるという「ネガティブな自己像」で固めていた。具体的に言えば、転々して、5つ目の職場の派遣社員であると同時に、故郷から駆け落ちした18歳以来、既に4人の男に捨てられて、5人目の現在は、女房に逃げられた、セーター編みを趣味とする、子持ちの女々しい男を彼氏にしているという「妥協の産物」。このような経験則の中で固められた自己像は、彼女にとって、不毛な上昇志向を寸止めにする、一種の有効な自己防衛戦略であったと言っていい。

ところが、有効な自己防衛網を巡らしたヒロインが、彼女の叔父(父の弟)によって、半ば強制的に、「ネガティブな状況」に持っていかれてしまったのだ。一度は捨てた故郷で、シジミ工場を経営する父の入院という由々しき現実が、彼女をして、女性中心の工場の従業員たちからモテモテの、父の不在のシジミ工場の再建のために帰郷せざるを得なくなり、有無を言わさず、その状況に捕捉されてしまったのである。

 「尊敬すべき父親を捨てて、東京に駆け落ちした性悪女」

このラベリングが、帰郷した佐和子を包囲し、性悪女を冷眼視する視線が職場の空気を、一層、険悪なものにしていくのだ。佐和子にとって、ある種、自己防衛戦略的な「ネガティブな自己像」を繋いできただけの青春の軽量感が、「ネガティブな状況」に捕捉されることで、否が応でも、彼女の内側に「二重課題」の負荷を受けるに至ったのである。

 「二重課題」とは、単に、彼女を捕捉した「ネガティブな状況」が分娩する心理的不安感に留まらず、彼女の自我のうちに不必要な観念が形成されたことで、これが厄介な克服課題と化した現象を言う。不必要な観念とは、「工場を再生させなければならない」という、言わば、断崖を背にした者の過剰な使命感のみならず、同時に、ほぼ同質の重量感を乗せて、「この仕事は失敗するだろう」という含みを持つ、相反する観念のことで、これらが彼女の自我のうちに共存してしまったのだ。彼女を侵蝕するこの心理圧は、以下のシーンで、その苛立ちが読み取れるだろう。

 「やんなきゃ、しょうがないでしょ。自分で出したものなんだしさ。そもそも、ウチはボットン便所なんだし、あたしが撒くよ。母さんが死んだ6歳のときから、これやってんの、あたし。いいからやってよ。エコライフがしたいんでしょ」

 これは、会社を辞め、子連れで随伴して来た、恋人である健一にぶつけた佐和子の苛立ち。因みに、「あたしが撒くよ」と言って、「自分で出したもの」とは、佐和子自身の糞尿のこと。如何にも、コメディーラインの展開だった。

「工場を再生させなければならない」という過剰な使命感を捨てて、「出来る限りやって失敗したら、それまでだ」と観念することで、限りなく、己が自我を閉塞させている心理状況を払拭することである。それは同時に、「失敗するだろう」という、自家撞着(じかどうちゃく)の意識をも相対化することに繋がるだろう。

 よく言われることだが、「真剣さ」と「深刻さ」とは異質なものである。事態に対して真剣になることは重要なことであるが、しかし、その心的状況が「深刻さ」を過剰に露呈させるものである様態は決して好ましくはない。心理圧を高めるからである。

人間が未知のゾーンに搦(から)め捕られたとき、不安感情を抱くのは当然のことなのだ。不安感情を抱くことと、その不安感情によって引き出されてきた、別の負性感情を加速させることは同義ではない。未知のゾーンに搦め捕られた場合、その時点で、為し得るマキシマムな行為を身体化することで、それで良しとする覚悟を括ることこそ大事なのである。あとは野となれ山となれ、というくらいの開き直りをしない限り、いつまで経っても不必要な観念に縛られて、結局、どうにもならなくなってしまう場合があまりに多いのだ。

 開き直るとは、「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にして、自分を囲繞する〈状況〉を受容することである。そして、その〈状況〉に拉致された自己を受容することである。それが、「開き直りの心理学」の唯一の突破口となるだろう。

言わずもがな、開き直った後の彼女の行動は素早かった。

 工場の作業台に上って、演説をぶつ佐和子。

 「あ、すみません。皆さん、ちょっと聞いて下さい。あ、こんにちは!駆け落ちした女です。あ、皆さん、私が駆け落ちした女だとか、親を捨てた女とか、散々言ってますけど、好きだったんですよ!すごく好きで、18だったし、青春の勢いに任せちゃって、駆け落ちしちゃったんですよ!青春の勢いで、バカだし、駆け落ちすることありますよね!でも、ですよ、結果的には失敗だったかも知れないですよ。でも、私だって所詮、中の下の女ですからね。逆に、中の下じゃない 人生を送っている人なんて、いるんですか?いたら、手を上げて下さい。ほら、いないでしょう。でも、普通の人なんですって。それの、何が悪いんですか!私 なんかね、何度男に捨てられても、頑張りますからね!て言うか、頑張るしかないんですから!」

 既に、風景の変容は決定的だった。

まもなく、「開き直りの心理学」を逆手に取った過激な社歌を作り、それを先導する彼女は、完全に物語の前半で見せた人格像と切れていた。今村昌平監督の「赤い殺意」(1964年製作)に代表されるように、この国では、開き直った女たちほど強い者はいないのだ。

 「やって失敗したら仕方がない」という、「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にして、自分を囲繞する〈状況〉を受容する「開き直りの心理学」を身体化し切ったことである。何のことはない。佐和子は、「開き直りの達人」だったのだ。

毒素満点の本作の切れ味によって、奇麗事で塗りたくってきた邦画界に切っ先鋭く提示したメッセージは、ヒロインに「全部吸い取っちゃって下さい」と言わせるに足る、腸内清浄なしに済まない人畜無害な情感系ムービーの一掃であったのか。



家族ゲーム(森田芳光)


この映画は、「委託主義」によってしか家族を維持できない脆弱性が、「破壊による再生 の可能性の提示」という「役割」のうちに、リアリティを蹴飛ばして記号化された感のある、家庭教師を演じる男の暴力的介入によって破壊されていく、殆ど 「ゲーム」化された現代家族の負の側面をマキシマムに映像化した、問題提起力のある一級のブラックコメディである。

それ故、私は、本作のキーワードは、「幸福家族」の幻想を信じ、それを継続させていく意思を持つ限り、最も肝心なところだけは引き受け切らねばならないにも関わらず、それさえも、「自分が引き受けられない事態」という認知のうちに丸投げしてしまう致命的瑕疵という意味で、「委託主義」と命名される何かであると考える。

従って本作は、積年の「委託主義」の常態化によって、受験期の子供を持つ難しい時期に突入した家族が抱えるアポリア、即ち、「幸福家族」の幻想の劣化を特徴づける「家族力」の脆弱さを、欺瞞的な軟着点に流れやすいシリアスなヒューマンドラ マで仮構せず、破壊力漲(みなぎ)るブラックコメディで押し切った、主題提起先行の娯楽映画であると把握する次第である。

本作で描かれた家族もまた、家族成員間の濃密な情緒的交叉の決定的瑕疵を象徴させる、 横一線に伸ばされた食卓形態の異様さによって、相手の視線を捕捉しながら会話を繋ぐという、ごく普通の日常的現象が穿(うが)たれていて、情緒的結合による人情の機微の断片すらも拾い上げていく一切の回路が断たれていたのである。

「家中がピリピリ鳴ってて、すごく煩いんだ」

受験を間近に控えながら、学習意欲ゼロの次男の、このモノローグによって開かれた本作を貫流するのは、メジャースケールのBGMを不要化した代わりに、殆ど機械音と化した家族の食事音と、本物の機械音の連射。

家族成員間の聴き取りにくい会話がそうであるように、この家族のコミュニケーション不足を、これらの機械音がシンボリックに表現しているのだ。

「幸福家族」の幻想のコアとなる「情緒」による結合という「家族力」の中枢の劣化は、今や、受験期を迎える難しい時期にある子供の思春期現象が突沸(とっぷつ)することによって、何とか糊塗(こと)しつつも折り合いが付けられるレベルを超えてしまっていた。

「家族力」の中枢の劣化を補うには、このような家族のケースの流れ方をなぞるように、「委託主義」の傾向を増幅させていく現象を必至にしていく。

受験期の子供の偏差値のみに拘泥し、少しでもレベルの高い学校を求めながら、それを金銭によってのみ解決しようとする父親。その父親が、家庭内でのコミュニケーション不足の最大の原因子になっている現実を象徴するのは、駐車場の自家用車内に会話の対象人格を呼び寄せて、「ここだけの話」を占有する歪んだ関係構造の様態である。

このシーンの寒々しさが、この家庭が内包してきた最大のアポリアであることを、ユーモア含みでありながらも、尖り切った映像は観る者に提示していくのだ。

「どうしても成績上げて欲しいんだよ。金、出すよ。1番上がったら1万円」
「30番上がったら30万円ですか?」
「・・・そうだよ」
「そんな金、本当にあるんですか?嫌ですよ、その時になって、ないなんて。お父さん、約束ですよ」

まさに、委託主義の極致と言っていい。

まもなく、「お父さん、約束ですよ」と言い放った三流大学の七年生が、次男への新しい家庭教師として立ち現れ、異議申し立てを認めないスパルタ教育を実践していく。

「よろしく」
「お願いします。可愛い顔してるね。ニキビが沢山あって。青春のシンボルだ。問題児だって?」
「受験生は、皆、問題児ですよ・・・」
「面白いことを言うじゃない」

そう言って、次男の頬にキスする家庭教師。

「気持ち悪いですよ・・・」
「俺だって気持ち悪いよ。クラスで後ろから9番なんだって?」
「まあ、そんなもんです」
「じゃあ、クラスで一番ビリは誰だ?」
「ブスの浜本です」
「そんなブスか?」
「笑っちゃいますよ」
「ブスでバカ」
「ブスでバカです」
「お前、可愛いけど、バカだな」
「自分はバカだって思いませんよ。勉強が嫌いなだけです」
「こんな時期に勉強が嫌いだって言ってるのが、バカだって言っているんだよ」
「簡単にバカだって言わないで下さい」
「悪かったな」
「趣味は何ですか?先生」
「勉強を教えることだよ」
「嫌な性格ですね」
「お前、趣味なんだよ」
「勉強を教わることです」

相当に面白い掛け合いコントの如き会話の挿入である。

こんな会話の挿入の手法によって、物語のブラックコメディ性との均衡を保持している映像のスタンスが読み取れるだろう。

船で往還する男に被された、「異界」の世界からの闖入(ちんにゅう)をイメージさせ る、「破壊者」としての記号性を、「豆乳を飲む大学生」という裸形の人格像のうちに引き寄せてしまえば、この「破壊者」が引っ張り切った物語で拾われた、 掛け合いコントの如き会話の面白さは、物語の強力な潤滑油を検証するに足る求心力があったと言えるだろう。

次男は、「成績が上がると、嫌がる奴がいるから面白いですよ」とまで言わしめる程に、腐れ縁の同級生との「共学」を嫌うが故に、地区のBクラスの神宮高校への志望を、独断で担任に届け出た。

この事実を知った父親が怒り狂ったのは、「本当は勉強ができるのに、怠けていたから成績が落ちただけ」と決め付ける父親の、露骨な上昇志向の意識の範疇では必然的だったであろう。

以下、そんな父親と、その父親に上辺だけの迎合を延長させてきた母親との会話。

「大体、俺に相談しないで神宮高に決めちゃってさ。西武高じゃなければダメなんだよ」
「どうしても西武高は嫌だって」
「そんなバカなことないだろう。神宮高より西武高の方が難しくて、茂之(次男の名)は折角、その難しいランクに入ってきたんだから」
「そんなこと、私だって言いました」
「やっぱりお前じゃダメなんだよ。甘やかして」
「そんなら、お父さん、言って下さいよ」
「お前ね、俺があんまり深入りすると、バット殺人が起こるんだよ。そんなことが分っているから、お前や、家庭教師に代理させているんだから」

思わず、吹き出してしまった会話だったが、当時の世相を反映した父親の物言いには、一貫して家族の問題を引き受けることから逃避する行為を、家族の秩序の安定的維持と考える欺瞞性に満ち溢れた、この国の父親像に張り付く究極の「委託主義」が露わになっていた。

この中年夫婦の究極の「委託主義」が流れ着いた先は、あろうことか、我が子の志望校の変更を次男の家庭教師に依頼するという行為だった。

金銭目的の家庭教師が次男の通う中学校に乗り込んで、ここもまた、担任教諭との掛け合いコントの如き強引な会話を通して、志望校の変更を具現するのだ。

明らかに、時代の世相を反映したユーモア含みのエピソードの中に詰まっている毒気は、究極の「委託主義」の些か爛れた様態を描き出すという一点に絞られていて、これが刺激的なラストシーンの伏線のうちに回収されるに至るのである。



ぐるりのこと(橋口亮輔)


出版社に勤務する佐藤翔子(しょうこ)が、夫のカナオとの間で「する日」を決め、それをカレンダーに「×」と記す行為の意味するものは、「する日」には 「しないこと」が許されない「×」の日であるということを、敢えて夫婦で共有する「欲望系」の、そのネガティブな前線の様態であるという映像提示から開かれた物語の面白さが、一気に観る者を虜にする。

妻翔子のこのような振舞いの内には、物事を秩序化された時間のサイクルの中で順序立てて組み立てていって、常に予約された文脈の延長線上に「日常性」が構築されるという把握=幻想があるのだろう。だから、この把握=幻想が自壊してしまったら、「日常性」の律動感をも切り裂いてしまうということだ。

 翔子が陥った「ウツという地獄の前線」の様態は、まさに、この文脈に皹(ひび)が入った事態を意味するだろう。

 と言うより、このような秩序を構築せざるを得ない「四角四面」の思考の持ち主であるが故に、「日常性」の継続力が失われる事態が惹起してしまったら、彼女の秩序が根柢から壊れ、「ウツという地獄の前線」への深々とした侵入を自己防御し得なかったと言える。それは紛う方なく、予約された「日常性」が裂けていくときの恐怖だった。

そんな翔子に悲劇が襲った。

 「あ、動いた」と、自分の腹を優しく擦(さす)って、夫と共に夜道を歩いていた翔子とカナオの赤子が産まれた後、亡くなったのである。

「娘 女の子 子供」というカナオの言葉が入り、左上に描かれた小さな右手が印象的なスケッチを偶然見た翔子が、思わず漏らした一言。

「嬉しかったんだ・・・言えばいいじゃない・・・」

饒舌さとは無縁な印象を与える夫にもまた、言葉に出せない思いがあることを、端的に伝える描写だった。

 その夜、佐藤夫婦の引っ越しを手伝ってくれた仲間を囲んで、簡単な宴が開かれていた。そこに一匹の蜘蛛が闖入(ちんにゅう)してきて、その蜘蛛を殺そうとしたカナオたちに向かって、翔子は「止めて!殺さないで」と絶叫したのである。翔子の心の中の明らかな変化が、映像の中で顕在化した瞬間だった。零(こぼ)した料理を黙々と片付ける妻と、それを柔和に見つめるだけの夫がそこにいた。

 既に、カレンダーには「する日」のマークが消えていて、カナオが土曜日に開く「絵画教室」の印だけが書き込まれていた。我が子を喪った悲哀を表情に出さない夫に黙って、妻の翔子は中絶の手術を受けていた。その悲哀の奥にある感情は、「産むことへの恐怖」であると言っていい。彼女のウツが、いよいよ抜き差しならないものに変容してきたことの表れだった。

 映像では、既に夫との食卓を準備できず、夫が買ってきたマイコンのポットにも全く反応しないで、ソファーに横になる妻。

 「病気じゃないから・・・」と妻。
 「夏バテか。少し休んだら」と夫。
 「そーとしなきゃだめなの」と妻。

 中絶手術を受けた心の重荷が、彼女を余計に苦しめているのだ。翔子のウツは、遂に飽和点に達してしまった。

 それは異様な光景だった。

 暴風雨の夜。

 仕事から帰って来たカナオが暗い部屋の中で見たものは、窓を開けて外を見遣っている妻の姿だった。その体は明らかにびしょ濡れになっていて、一瞬、言葉を失ったカナオに不吉な感情が走った。

 「何してるの?」

 妻は答えない。その表情は、深く思いつめて、抑制の効かない感情に翻弄されているようだった。

 「風邪、引くよ」

 夫がその一言を添えたとき、振り絞るような声で、妻は言葉を吐き出していく。

 「あたし、子供ダメにした・・・」
 「しょうがないよ。自分のせいじゃないし、寿命やったんやろ・・・」
 「死んで悲しかった?」
 「残念やったと思っとるよ・・・」
 「残念?」

 この言葉に刺々しいものを感じた夫は、妻の攻撃性を中和化させようとする。

 「何で・・・すぐ、お前そんなに言う・・・そういう話、苦手なんよ、知っとるやんか・・・」

 夫は静かに語りかけて、妻との距離を縮めていく。

 「泣いたらいい人なのかなぁ、そんなん、あてんならんやろ俺、親父が首吊って死んだときも泣かんやったし、それよか、あー人って裏切るんやなぁって、そんとき思ったよ。そりゃ、お袋たちはワンワン泣いとったけど、あれは自分を納得させたかっただけのことよ。結局、親父が何で死んだのか、まだ誰も知らんまん
なんやけね。人の心の中は分らんのよ。誰にもね

 ここまで話したとき、妻の心にどこまで届いたかについて、夫のカナオには特別な計算が働いていない様子が、観る者には容易に察知できる。

 電気を点けて、部屋を明るくした夫がそこで見たものは、この部屋に住みついているかのような(?)一匹の蜘蛛。妻がその小さな命を守ろうとした蜘蛛を、無頓着な夫は忘れていたのか、いきなり土産の「金閣寺」の箱で叩きつけて殺してしまったのだ。

 その瞬間だった。

妻の翔子は、夫に突進していった。未だ妻には、「突進力」が残されていたのである。だからこそ、その後の絶叫と攻撃が、それを結ぶ自我から些かの脆弱性を稀釈化させていったのである。蜘蛛の死骸を確認した妻は、「金閣寺」の箱を手に取って、夫に投げつけた後、夫の髪といわず、顔といわず、思い切り自分の体全体をぶつけていく。夫の頬を打ち、夫も妻の顔を軽く張った。

 「ごめん、ごめん」

 夫から出てきた言葉だ。

 妻は床に繰り返し、嗚咽ともつかない音声を発して地団駄を踏む。まるでそれは、心の中の毒素を吐き出しているような光景だった。

 階下に住む女性が苦情を言いに来たときも、常軌を逸した翔子は口汚い言葉を相手に浴びせる始末。夫はそんな妻の暴走を必死に抑え、激昂する相手に弁明し、謝罪するのみ。
黒々とした感情を吐き出し切った妻は、部屋の片隅に小さく蹲(うずくま)り、嗚咽するばかり。

 「どうしていいか、分んない」
 「何でもうまくいかんよ」
 「本当に・・・もっとうまくやりたかったのに・・・でも、うまくできなくて・・・もう、子供、できないかも知れない
 「子供のこと、いつも思い出してあげればいいじゃん・・・忘れないようにしてあげれば、いいじゃないの・・・お前は、色んなことが気になり過ぎる。考えてばっかり。皆に嫌われてもいいぞ。好きな人に沢山好きになってもらうんだったら、そっちの方がいいやん」

 妻の背中を擦りながら、夫は優しく語りかけていく。いつものペースである。いつものペースだからこそ、嗚咽の中で、妻もいつものペースで思いを吐き出していく。

 「好きな人と通じ合っているか分んない・・・ちゃんと横にいてくれているのに、あたしのために・・・いてくれてんのか分んない」
 「大丈夫何でそういう風に考えるの?」
 「何か何か離れていくのが分ってんのにどうしていいか分んない・・・」
 「考え過ぎだって。考えたら、わけ分んなくなるぞ・・・大丈夫」
 「どうして・・・どうして、私と一緒にいるの?」
 「好きだから好きだから、一緒にいたいと思ってるよ。お前がおらんようになったら困るし。ちゃんとせんでもいい。一緒におってくれ」

 妻は、この言葉を待っていたのだ。確信していたが、それを言葉に出して言ってもらいたかったのである。相変わらず切れ味が悪い夫の言葉だが、しかしそれを言ってもらうことで、次の言葉がスムースに吐き出せたのだ。

 「ちゃんとね、ちゃんとしたかったの・・・でも、ちゃんとできない」
 「ごめんな。ごめん」
 「ごめん」

 妻の症状がピークアウトに達して、これ以上にない感情を吐き出し尽くして、もう吐き出す何ものもないギリギリのところで、自らの全人格を受容してくれる対象人格に一切を預け、そこで得た小さいが、そのサイズこそ自分に見合った最適対象人格であると感受できるイメージラインを身体化したとき、これまで黒々とした 冥闇(めいあん)の世界に拉致されていた何かが変容し、それまでのあらゆる経験情報にない何かが、新しく作り出される予感に近いものが、脆弱だった自我の 辺りに張り付くようだった。

この暴風雨のシークエンスが圧巻だったのは、気の利いた言葉の連射によって相手を受容するという、往往にして垣間見られる安直な物語に流れ込むことなく、人間の心理の真髄に肉薄する会話と動作のリアリティが、緊張感溢れる呼吸音を観る者に伝える表現力によって補完されていたからである。

 このシークエンスの成功が、その後のストーリーラインの流暢な展開を導き出したと言っていい。説得力ある心理描写と、リアルな状況描写の成功こそが、映像の完成度の高さを保証したのである。



女の中にいる他人(成瀬巳喜男)


不倫という、覚悟なしに踏み込んではならない非日常の世界に、一人の小心な男が侵入した。男は、その世界で遊ぶにはあまりに似つかわしくなかったのだ。覚悟もなければ、魔境の世界を仕切る能力にも欠けていたからである。

 案の定、女が仕切った魔境の淵に男はもがき、沈みこむ。

 「首を絞めて」と催促する女のゲームに、男は加速的に引き摺られ、そして、その細い流線の首を締め切った。踏み込んではならない魔境の向うに、未知なる闇が広がっていて、男は更にその世界に侵入したのである。

 殺人事件の発生である。女は親友の妻。

 SMの世界に手慣れていたであろう女が、ゲームに疎い男の潜在的攻撃性の暴発によって落命する。幼少時より内的衝動を抑制し過ぎてきた自我が、仮想現実のようなゲームのツボに嵌って暴発したのである。それが、男の自虐的な彷徨の始まりだった。女を絞め殺した男もまた、自虐の連鎖に嵌っていく。

 ―― その最初のステップは、妻に対する不倫の告白。

 「話さないでくれた方が良かった」という妻の憂いを無視して、容赦なく第二のステップが開かれる。遊園地での束の間の家族ゲームによっても癒されなかった男は、ノイローゼの認知の中で、一人温泉宿に旅立った。

 そこで遭遇した自殺の現場に立って、男の自我は溢れる不安を抱え切れなくなったのだ。男は妻を温泉宿に呼び出して、薄暗いトンネルに誘(いざな)った。

 ―― そこで男は、再び妻に告白する。

 不倫の相手を殺害したのは自分であったことを。驚愕する妻の表情を、闇を抜けるトラックの照明光が不気味に照らし出す。今度ばかりは穏やかでいられない自我を、告白という暴力が劈(つんざ)いた。告白によって少しは軽くなる者と、とてつもなく重くなる者との自我の関数は、あまりに残酷である。妻は夫の精神的暴力を全身で受け止めるしかなかった。

 まもなく、夜の床で妻は夫の犯罪を受容し、「忘れましょう」と静かに言い放って、夫の暴力を断崖の際で食い止めたのである。この瞬間、不本意にも、妻は夫の犯罪の共犯者になったのだ。

 しかし、夫の自虐の暴走は止まらない。

 温泉宿での第二の告白の翌朝、長男の病気を救ってくれた親友の行動が気になって、彼の自宅を訪ねる。彼は、自分が殺害した女の夫であるのだ。しかしこの行動の伏線には、会社の同僚による横領事件が濃密に絡んでいた。社長の指示で同僚の自宅を訪問した際、事情を知らされた妻が警察沙汰を恐れる心情を目の当りにして、男はやがて逮捕されるであろう同僚の末路を我が身に重ねたのである。

 贖罪なしに済まない男の心象風景は、いよいよ際立つブルーに染め抜かれていた。そのブルーのラインが広がって、遂に、親友に事件の顛末の一切を告白するに至る。「やっぱり」という相手の重い呟きに、男は自虐的な反応をするばかり。親友に殴られた後、「忘れろ」と言われて許容されてしまう男の自虐は、またしても妻に向かって放たれるのだ。

 ―― 第三の告白のステップ。

 泥酔して帰宅した男は、とうとう親友に告白してしまったことを妻に告げる。動転した妻は、自分だけ楽になろうとしている夫を責め立てた。自分がようやく落ち着ける場所を手に入れたと思ったそばから、恰も、その場所を狙い撃ちして来るかのような、夫の加速する告白という名の暴力に、気丈な妻の自我も許容臨界点に近づきつつあった。犯罪の精神的加担者を、これ以上増やすわけにはいかなかった。妻はまもなく夫の親友を訪ね、夫が紛れもない犯罪者であった事実 を、そこで改めて確認するに至る。夫の自虐が最終局面を拓くのは、殆ど時間の問題だった。

 ―― 第四の告白のステップ。

 それは、エンドマークに繋がる最も重苦しい展開を開示せずにはすまなかった。そこまで流れていかずには済まなかったであろう、言わば、約束された悲劇が、 殆ど確信的自虐者になっていた男を待っていた。根拠を持った不眠の恐怖が、既に男の神経をズタズタにしてしまっている。寝床から起き上がった男が部屋を 出て、体も心も引き摺って、階段を下りていく。

 男のモノローグ。

 「自首しろ!自首するんだ!それがたった一つのしなければならないことだ。救われる道だ。いや、救われようと救われまいと、おれは自首しなくっちゃならない!」

 そこ以外に逢着し得ない場所に、男は遂に辿り着く。

 男の自虐の完結は、恐らくそこにしかなかった。苛めて苛め抜いて、それでも足りずに巻き込んで、巻き込み抜いて辿り着いた贖罪の世界。それ以外に安寧と秩序を手に入れられない世界の中枢に、良心という名の心地良き絶対者が棲んでいる。制度による厳格なペナルティを受容することだけが良心を検証し、告白という暴力を是認し、自虐の快楽を継続的に正当化することができるのである。

 夫の決意を変えられないと確信した夜、妻は夫のウイスキーのグラスに致死量の毒を盛った。妻もまた、人生で最も長くて重い夜を駆け抜けていく。

 「こうなったら、表玄関から堂々と出て行こうとしているあの人を、あたしが裏口からこっそり連れ出してあげるより仕方がないわ」

 雪崩のような夫の告白という暴力の攻勢によって沸点に達した妻が、そこにいる。耐えて、耐えて、耐え抜いた末の妻の決断は、もはや、犯罪の精神的加担者の枠を突き破るものだった。決して踏み込んではならない世界に、夫の告白に耐え抜いた女もまた侵入してしまったのである。

 ノイローゼによる夫の自殺。全てこれで片付いてしまった。

 その詳細な経緯について、成瀬の映像は例によって何も語らない。

 最も必要な描写のみをテンポ良く繋いでいく映像の流れが、却って、夫婦の感情の奥の部分まで際立たせて見せていた。そんな映像が最後に語ったのは、妻のモノローグ。

 「あたしは、何か恐ろしいことをやってしまったんだわ。このまま黙って生きていけるだろうか。あの人が自分のやったことを黙っていられなくなったように、 あたしもまた黙っていることが苦しくて、誰かに向って、告白せずにいられなくなるだろうか。その日まで、ともかくも、あたしは子供たちの姿を見守りながら、黙って生きていくわ」

 海岸の波打ち際で戯れる二人の子供たち。それを見守る母がいる。既に、妻ではなくなった一人の女がいる。恐らく、告白せずに生きていくであろう強靭な女がいる。決して自虐に逃げ込まない者は、絶対的に強いのだ。

 そういう者は、告白する相手を大抵持たない。自ら語り、自ら納得する。語るべき何かを引き受けられる能力を持つからだ。それは人に語ることによって得られる安らぎを、既に内側でクリアしてしまっているからである。

 男は踏み込んではならない世界に、確信的に侵入できなかった。

 その覚悟のなさが男を犯罪者にした。だから、男は最後まで確信犯の領域に上り切れなかった。せいぜい、確信的自虐者の森を彷徨っていただけだ。しかし女は 違った。相当の覚悟をもって踏み込んではならない世界に侵入した分だけ、ほぼ確信犯の領域にまで上り詰めている。女にあって男になかったもの、それは犯罪の覚悟性であり、その継続力の強さだった。

 この映画は、果たして何を表現したかったのか。

 この映画を私なりに解釈すれば、男の際限のない自虐に対して、決して自虐に逃げない妻がリベンジする話である、ということになる。マゾヒズムと化していく 告白的な自虐によって少しでも良心の証を手に入れることで、自ら犯した重大な犯罪を希釈化すると同時に、それを関係の中に拡散し、分有化しようという自己欺瞞。

 こんな厄介な病理が、一見「苦悩する犯罪者」の内面に張りついているが、それは元はと言えば、踏み込んではならない世界に覚悟なくして侵入したことへのペナルティの結果であって、だからこそ、少しでも早く楽になりたいと願う男の小心な日常性は、継続的に自壊し続けてしまう悪循環に拉致される他はなかったのである。周囲を巻き込むことなくして自己完結できない男の弱さが、遂に女の強さの中に呑み込まれてしまったのだ。

 妻にとって、夫の告白は暴力以外の何ものでもなかった。この暴力に、妻は四度受難したのである。それは自らの家庭をじわじわと破壊していく暴力でもあった。妻の最後の決断は「愛するがゆえ」の決断ではなく、自己防衛の決断であり、或いは、それ以上に自虐者=加虐者でもあった夫への確信的なリベンジでもあった。小心な男にとって自らの甘えを吸収し、依存することができる絶対的な存在は、男の妻以外ではなかった。妻に対して繰り返し懺悔し、その度に許容される男の 自我は、結局、告白という暴力の連鎖を止められなくなって、遂に我が身を司直の手で裁いてもらうという、それ以外にない選択に流れ込んだのだ。

 そんな男の身勝手な自己完結を、妻は最終局面で拒んだのだ。

 覚悟もなしに勝手に不倫し、勝手に人を殺したことで拓かれた夫の際限のない自虐の連鎖を、覚悟を決めた妻が断ち切った。それだけは許してはならない夫の自虐の完結を、確信犯として生き抜いていくであろう妻が確信的に断ち切ったのである。自虐の連鎖に入ってから、最後まで自分のことしか考えようとしなかった 夫を、家族の行く末を考える妻が、それ以外にない方法によって完璧に葬り去ったのだ。

 それ故に怖い映画だった。それが人間の闇の奥にある真実を、鮮やかに照らし出してしまったからである。



ミラーを拭く男(梶田征則)


面白かった。存分に堪能できた。
 
 私にとってこの映画は、日本映画がまだ必ずしも駄目になっていないことを検証させてくれた作品でもあった。私がここまで入れ揚げ、擁護するほどの作品でありながら、本作に対する評価は、恐らく毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばして、明瞭に二分されるに違いない。
 
 私が思うところ、評価の分岐点は世代の分岐点である。世代の分岐点を決定づけるのは、「時代」とか、「時代の息吹」とかいうようなものである。具体的に言えば、21世紀を快走する青少年と20世紀の後半、 もっと限定すれば、1960年代から70年代にかけて結構騒々しい青春期を過ごした、いわゆる、団塊の世代との映画観の微妙なギャップが、この映画の評価 の是非の分岐点になっているように思われるのである。
 
 恐らく前者は、ここで描かれた主人公の生きざまを理解できないであろう。
 
 この寡黙な主人公が人生の岐路に立ったときのその決定的選択の意味を、21世紀に生きる若者はとうてい把握できないであろうから、当然の如く、彼の人格を受容することは困難になる。今の若者には、全国のカーブミラーを拭くための旅に打って出た、皆川勤なる初老の男は、自分勝手なエゴイストにしか映らない はずだ。

 敢えて言えば、主人公の行動に感情移入できなかったら、この類の作品は途端にその輝きを失うであろう。なぜなら重苦しいテーマの作品を、軽快なテンポと 心地良いBGMによって、些か滑稽じみたストーリーラインで固めた映像の、その本来的なメッセージが根柢から吹き飛んでしまうからである。即ち、主人公への感情移入の成否が、この映画の受容度を決めてしまうということである。
 
 一貫して、主人公は何も語らない。何も語らないけど、彼は山野を淡々と疾駆し、自分の身体が反応した分だけの微笑を、路傍の上に捨てていく。この男の心情を推し量れない観客は苛立つだけだ ろう。実際この男は、映像で映し出された描写の部分で観る限り、自分勝手であり、エゴイストでもあるだろう。そんな男が好きなことをやって、心地良さそう に疲労に酔って、謎の微笑を捨てていく。

 精神病理ではないか、と見る向きは多いはずだ。男の妻だけが一人残されて、苦情を一身に引き受ける。そればかりか、生活苦の問題にも直面している。勝手に退職した男は、妻が唯一当てにした退職金を棒に振ろうというのだ。彼の息子と娘は、テレビで映し出された父の奇行に赤面する思いを募らせる。こんな勝手 な男を、その心情の中枢の辺りにおいて把握できなかったら、「鬱病」という病気のレッテルで片付けた方が遥かに楽であるに違いない。

 皆川勤という男は、一体何者だったのか。彼はなぜ、何も語らなかったのか。語ろうとしなかったのか。団塊の世代か、それより少し上と思われる彼の世代は、寧ろ語り過ぎ、必要以上に動き過ぎた世代ではなかったのか。なぜ、同世代のサイクリストがあれほど饒舌だったのに、彼だけは寡黙を貫いてしまったのか。
 
 彼は何も語らなかったのではない。語る必要がなかったのである。少なくとも、自分を知らない他者に対して、自己を語る必要を感じなかったのである。彼の旅は、語るための旅ではなかったからだ。彼の旅は自分が今どこにいて、どこに向っているかを了解できるラインの内側で、ただ自分が為すべき仕事を持っていて、それを為すことによって繰り返し大切な何かと出会うための旅でもあった。

 大切な何かとは、恐らく自分が今まで失っていた、自分が本来在るべきところのもの、即ち、曇ったガラスを綺麗に磨くことによって映し出された、自分自身の現在のあるがままの、その偽りのない相貌である。彼は自分自身と繰り返し出会うための旅を、唯それだけだが、しかし、今の自分にとってそれ以外にない、 最も切実なる旅を重ねていたとも考えられるのだ。
  
 恐らく、男は長い間、典型的なまじめなサラリーマンとして生きてきた。美しい妻を持ち、それなりに社会的自立を果たした子供たちがいて、比較的豊かな生活を送る普通の家庭があった。映像から観る限り、男が作った家庭は極めて平凡であり、それなりの親和力が形成されている。

そんな平凡な男が、一つの交通事故を契機に、深刻な危機に直面したのである。それは、初めてカーブミラーを磨いた直後の、被害少女の祖父との会話が端的に物語っていた。詳細は、本稿のプロットの説明で先述したとおりだが、男はここで明らかに、ミラー拭きの旅に打って出る、その原初的なモチーフを形成したのである。

結局、内的状況から逃げ切るだけの能力を欠如させる男は、事故現場に何度も立ち現われたのである。その度にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の片鱗とも思える悪夢が過ぎる。フラッシュバックである。それでも逃れられない悪夢を断ち切るには、悪夢のただ中に這い入っていくしかなかった。

 これを、「恐怖突入」という。森田療法の概念である。男は恐怖突入を図ることによってしか、自らを救えないと信じる辺りにまで追い込まれていた、と考えることもできる。同時にそれは、自らの鬱症と正面対峙し、それを克服しようとする正常な自我の働きであるとも言えるのだ。この映像を考察する上で、幾つかの重要なキーワードがある。

 それらは、「人生の定年」であり、「鬱による喪失感とその克服」であり、「中年夫婦の老後の幸福」であり、「自我アイデンティティの獲得」であり、「自己と自己に繋がる者たちの再生」等である。いずれも自らを凝視し、抉り出し、自己史の総体を厳しく省察する作業によってしか振れていくこのとのない内面世界であり、関係世界でもある。

 そして、そのような作業の果てに「微笑」が待っているのだ。彼の旅は、この「微笑」を手に入れるための旅だったと言えないか。

何年か前にこのカーブミラーがないことによって、男が事故を起したその場所で、一人の少女が命を落としたのである。少女の命の代償としてのカーブミラーこそが、男にとって特段な意味をもつ運命的な媒体なのだ。従って、命を落とした少女の祖父との出会いもまた、男にとって運命的な出来事だったのである。そして、そのカーブミラーに自らの相貌を映し出したとき、男は初めて、「微笑」らしき何かを手に入れかかったのである。

 そこに映し出されたもの。それは男のあまりにフラットな過去であり、本来自分がそこに辿り着くかも知れなかったイメージラインの片鱗であり、それらは即ち、男の現存在性それ自身 を内側から問いかけていく根柢的な時間意識であった。男はそこに、「今」という時間の重量感を嗅ぎとったのではないか。そう思う。

 彼は唯ひたすら、感謝の念を表現するために市内のミラーを磨いたに違いない。そうしなければ、自己の内面的危機を克服できないと考えたのだろう。映像で度々現出する事故の悪夢は、男の自我が「過去」によって縛りつけられている証左である。これは全国の旅に打って出た後も、男の自我にとり憑いて離れなかった。

 当然である。旅に出たくらいで、全てが浄化されるはずはないのだ。それでも男は旅を止めなかった。止められなかったのである。無論、自分を取材するメディアのためではない。自分自身が折り合いを付けられる辺りにまで、自我が充分に届き切っていなかったからである。映画は、このような重い問題を内包していたのである。

不倫しない夫。ギャンブルに走らぬ夫。職務を誠実に遂行する夫。寡黙な夫。無趣味な夫。子供たちから特別な尊敬の念を抱かれていないが、しかし家庭を破壊する暴力性とは無縁なる夫。そんな夫に、妻は似た者同士の思いを共有していたのではないか。

 もし事故がなかったらと仮定したら、夫はどのような老後の人生を送っていたか。このテーマの仮定的な設定は、極めて重要である。その仮定に推論を加えると、もし事故が存在しなかったら、男の人生に劇的変化を随伴する時間が待機していたとは考えにくいのだ。夫は恐らく、妻のイメージラインに沿って、自らの思いを少しばかり寄せていったに違いない。それは、何の変哲もない人生だったか も知れない。しかし、それでも男は充足感を手に入れたかも知れないであろう。

 一切は仮定である。誰も人生の先を、明瞭なイメージで読むことなどできようはずがないのだ。

 しかし、男は事故を惹起してしまった。そのことによって、男は本来なら、もう少し後になって考えたかも知れないイメージラインを前倒しする必要に迫られた。その結果、男は自分の未来のイメー ジがあまりに稀薄であるという現実を知ってしまった。それは同時に、男のこれまでの人生の軌跡を省察させるものになってしまったのである。それは男にとって、決して悪いことではなかった。

 鬱という病気にしばらく潜り込むことで、男は生まれて初めて、本格的な「省察の人生」を、自らの内に作り上げたとも言える。顕在化された男の危機は、家庭の危機のそのとば口辺りまで亀裂を深めたが、幸いにして男には、その男を真剣に理解しようとする一人の女がいた。妻の紀子である。彼女は夫を弱々しく責め立てたが、しかしそこまでだった。男が事故の被害者となる出来事の招来によって、男の妻は、男にもう少し近づけるところにまで辿り着き、そして遂に男を了解するに至ったのである。

 その心理的経緯は、映像では詳細に映し出されなかったが、しかし、夫を理解し得る妻の微笑をそこに刻むことによって、二つの心が一体化したことを印象的に 映し出していた。恐らく、その妻の心象を描き出す必要がないほどに、夫と妻は本来的に繋がり得る一定の強靭さを包含していたのであろう。

 要するに、彼らは似た者同士だったのだ。それ以外に説明しようがないのである。

 妻の紀子の自転車が、夫のそれと殆ど同じラインに並んだとき、それは定年以後の二人の人生のパートナーシップを間違いなく表現していたのである。その意 味で、妻の紀子にとって、偶(たま)さか、人生のパートナーとの絆を繋ぐツールとして二台の自転車が選択され、そして、その自転車で全国のカーブミラーを拭 くための旅が選択されただけなのである。
 


お引越し(相米慎二)


極めて情緒的な映像に仕上がっている本作は、思春期前期にある12歳の少女が、両親の別居・離婚という「非日常」の状況下で、未だ幼い自我が蒙る複雑で 様々な不安感情を自分なりに浄化させ、解決していくことによって、ラストカットに繋がる「セーラー服を着た中学生」に象徴される「自立」するプロセスを描き切った秀作である。

 思春期前期にある12歳の少女が、それまで拠って立っていた自我の安寧の基盤である、「幸福家族の物語」に破綻が生じたとき、少女の「日常性」は加速的に安定感を失っていく。

 本来、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。恒常的な安定の維持をベースにする生活過程であるが故に、「日常性」には、それを形成していくに足る一定のサイクルを持つ。
 

その「日常性のサイクル」は、「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つというのが、私の仮説であるが、しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。恒常的な「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。逆に言えば、「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからでもある。

 もし、この「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦め捕られた主体が、思春期前期にある12歳の少女であって、「非日常」の内実が両親の別居・離婚という 由々しき事態であったなら、そこに生じる「非日常」の様態が、未だ「親」の管理を脱して形成され得ない、非自立的な一次的自我に与える負の影響力は看過し 難いだろう。

鋭角的な三角形のテーブルが巧みに象徴しているように、両親の別居・離婚という由々しき事態によって、少女の自我が蒙るストレスは、或いは、少女のその後の人生に決定的な負荷になるかも知れないのだ。

 因みに、児童発達論を専攻する米のカレン・デボード博士によると、「離婚によって子供にストレスを引き起こす原因」は、「変化への恐れ」、「愛着感の喪 失」、「見捨てられ不安」、「親達の間の敵意」の4点を指摘している(「子どもに注目:離婚が子どもに与える影響」堀尾英範訳)

 本作において、少女が蒙ったストレスの中で、最も重大な課題であったのは、「変化への恐れ」、「愛着感の喪失」と「親達の間の敵意」の3点であろう。

 しかし、この4点の指摘の中で、本作の少女に当て嵌まらないのは「見捨てられ不安」である。なぜなら、少女は両親から嫌われていないことを確信しているからだ。

 だから、この少女が切望するのは、ただ一点。「両親の和解」による「家族の再生」。それのみである。

 それのみであるが、「親達の間の敵意」の感情が、深い憎悪の極限にまで尖ったものに爛れ切っていなかったが、「両親の和解」の事態の復元の困難さを、映像は存分に露わにしていくのである。

 しかし、映像を観る者に把握し得ることが、12歳の少女には不分明なのだ。だから少女は、「両親の和解」による「家族の再生」を求めて、健気なまでに必死に動いていく。

 これが、映像前半を貫流する物語の流れであった。

 少女の名は、レンコ。

 小学6年生の、闊達(かったつ)な少女であるが、理科の実験の授業で小火(ぼや)騒ぎを起こしてしまう行為に象徴されているように、親たちの勝手な判断で、「変化への恐れ」と「愛着感の喪失」に翻弄されるレンコのストレスもまた沸点に達していた。

 その事実を知って、動顛する母だが、娘のストレスを浄化し得ない現実に、今度は形式的な夫婦であった両親が翻弄されていく。

この辺りのシークエンスを敢えて軽快なテンポで描いていた本作は、後半に踏み込むや、明らかに風景の変容を見せていく。一連のプロセスを経て、少女はいつしか現実に向き合い、それを受容していくという、本作の肝に振れていくからである。

 これは、琵琶湖の森を散策する少女のシークエンスの中で、極めて情感的に描かれていた。

 「もうええの。そんなん、もうどうでもええのや。なあ、お母さん。私、早く大人になるからね」

 愛する娘に対して自己の無責任さを謝罪する母への、少女レンコの、それ以外にない決め台詞である。

謝罪する母の所に戻らず、森を散策するという、「思春期彷徨」の果てに射程に収めた夏祭りの光景。少女の眼に映ったのは、かつて円満だった両親と自分が、湖の中で戯れている幻想の風景だった。

 「おめでとうございます!」

 海老一染之助・染太郎の名台詞を、湖の中で、自分の心境に引き寄せて、繰り返し叫ぶ少女。

 湖の中から出て、焚き火に当たる少女。そこに母が現れたとき、既に、「自立」に向かう小さな意志を固めた明るさが、眩いまでに輝いていた。

 「篭城作戦」に見られる、多分に他律的な児童期自我から、「森の彷徨」に見られる、自律的な思春期自我への「お引越し」を象徴する、この言葉こそが本作の全てであると言っていい。思春期彷徨の果てに掴み得た自立への歩みの中で、少女は現実を受容し、本来あるべき自我の揺籃のかたちを立ち上げていくのだ。

 短期間だったが、この一連の騒動の中で、「非日常」の負のスパイラルのリスクを自分なりに浄化することで、内側が存分に鍛えられ、加速的な成長を遂げるに至ったのである。

些か毒気に欠けるものの、殆ど文句のつけようのない構築的映像だった。



秋刀魚の味(小津安二郎)


単に、その時代に生きる「中流階層」の人々の、淡々とした「日常性」を描いただけなのに、ここまで「美しい日本の、美しい心の風景」を、「そこだけは捨ててはならない堅固な信念」のうちに、特定的に拾い上げる執着心を理解し得るとしても、「人間の、或いは、日本人の醜悪な様態」が、まるでどこにも存在しないもののように描かれること、即ち、「冷厳なリアリズム」を擯斥(ひんせき)してしまう「小津的映画空間」に、恐らく、今村昌平もそうであったと同様の文脈において、私もまた全く馴染めないのである。

 それにも関わらず、本作に対する私の感懐には、それまでのような、「美しい日本の、美しい心の風景」への拘泥が希釈化されている印象を拭えないのだ。

 それは、昔の教え子に対する中学時代の恩師である佐久間の、何か封印し切れない卑屈さと、その恩師に対する昔の教え子たちの態度の軽侮の念が、そこもまた、封印し切れない露骨さの中で表現され過ぎていた点に集約されるだろう。

 こんな残酷な描写を、小津監督は映像化したのである。それは断じて、小津流のユーモアの範疇で収斂されない描写だった。まるで、私の最も愛好する成瀬映画を観るようでもあった。成瀬的残酷さを包括する老境の孤独の様態のイメージが、そこにべったりと張り付いていたのだ。

 それ故に、佐久間の人物造形の意味が際立ったのである。

「寂しいんじゃ、哀しいよ。結局、人生は一人ぽっちですわ。わたしゃ、失敗した。つい、便利に使(つこ)うてしもうた。娘をねえ、つい便利に使(つこ)うてしもうて、嫁の口もないじゃなかったが、なんせ、家内がおらんのでねえ。失敗しました。つい、やりそびれた」

 これは、かつて「ヒョータン」と揶揄(やゆ)された、中学時代の恩師である佐久間の言葉。

 クラス会での宴席で、箸置きの下にあった現金入りの紙袋の礼に、かつての生徒たちと、再び宴席を設けたときのことだ。

 中学校教諭を定年退職し、今はラーメン屋を営んでいるが、妻を亡くしたため、一人娘を家政婦兼従業員代りに育ててしまったことを、佐久間は悔いているのだ。婚期を逃し、娘を「行かず後家」にしてしまった責任を、教え子との宴席の場で吐露する中学時代の恩師の嘆きを、直截(ちょくさい)に受け止めるのは、本作の主人公であると同時に、娘を嫁に出す寂しさを託つ周平。

 周平もまた、佐久間が置かれた状況と変わらない心的風景をなぞっているのである。

 「寂しいんじゃ、哀しいよ。結局、人生は一人ぽっちですわ」
 

 佐久間の吐露には、それを経験した者でなければ分らない哀感が深々と滲み出ていて、そこだけは、周平の情感に喰い刺さっていったのである。

「娘の嫁入り」という、「日常性」と地続きにある人生の大きな節目を目の当たりにして、揺れ動く父親の心境もまた、回避できない宿題を突き付けられた者の、名状し難い寂寞感を晒すのだ。

 それ以前のカットにおいて、一人でラーメン屋の店の片隅に佇む佐久間の姿が、ローアングルのフィックスで撮られていたが、「人生は一人ぽっち」という老境の哀感漂う名場面だった。老境の孤独を、これほど感じさせるキャラクターであったからこそ、ラストシーンでの周平の老境の孤独が深い余情を醸し出したのだ。

その有名なラストシーン。

 「俺も寝ちゃったぞ。明日、また早いんだぞ。俺がめし炊いてやるから」

 娘の路子を嫁入りさせた父の孤独の心境を案じる次男が、一人で台所にいて、酔っている父に声をかけるのだ。

 「ん、やあ、一人ぽっちか・・・」

 そう言って、軍歌を歌い始めるが、途中で止め、一人でやかんの水を汲んで、音もなく飲む周平。

 小さい嗚咽を洩らす老人の後ろ姿を映し出したラストカットの括りは、実に見事な閉じ方だったという他にない。

返す返す思うに、余情を残すラストカットで閉じる本作は、老境にある者にとって、何より大切なのが、「生きがい」というよりも、「居がい」であり、「居場所」の問題であることを示唆した映画でもあった。或いは、本作こそ、「小津映画」の最高到達点ではないのかと思わせる何かが、そこに凝縮されていたのである。

 思えば、周平の老境の孤独と言っても、近隣のアパートに住む長男夫婦がいて、未だ我が家には次男が同居しているのだ。このような家族の形態は、今、「インビジブル・ファミリー」と呼称されている。既に成人化した子供たちが近隣に住んでいて、精神面という幹の部分で支え合っている、このような家族は「擬似同居家族」とも呼ばれているそうだ。

 よくよく考えてみれば、本作の主人公である周平にとって、我が家をほんの少し空洞化させしめたのは、単に、長女を嫁入りさせたに過ぎないのである。

 それにも関わらず、思いの外、深い余情を残すラストカットの風景の孤独感を醸し出すのは、目眩(めくるめ)く変容を遂げていく時代に置き去りにされるイメージを張り付けているからだろう。

 「女性の社会進出」に対する違和感が相対的に希釈化されていった時代状況下にあって、娘を「我が家」に拘束したことを悔いる男の悲哀が、ユーモア含みの本作の基調音を、成瀬的残酷さに近いマイナースケール(短音階)の陰翳を映し出してしまったのだ。

あっさりと嫁に行き、それをあっさりと、「擬似同居家族」が認知する。明らかに、「晩春」の、ネチネチした父娘の睦みの深さと分れているのだ。だからこそと言うべきか、私にとって、本作は印象深い一篇となったのだろう。

 そう思わせる遺作だった。敢えて補足すれば、その「小津的映画空間」のうちに一片の「欺瞞性」を感受させないのは、そこに、確固たる「小津的映画空間」の独自の映画文法が堂々と屹立しているからであろう。

 だから、決して唾棄すべき映画作家ではないということ。それだけは紛れもない事実である。



雨月物語(溝口健二)


この映画の主題は、あまりに明瞭である。

陶器を市場で売ってしこたま稼いで帰郷した源十郎が、その後、眼の色を変えて陶器作りに励むことになった。それを手伝う源十郎の妻、宮木が放った言葉。 

 「まるで人柄が変わったように気ばかり焦って、私は夫婦共働きで気楽に働いて、三人楽しく日を過ごすことができればと、そればかりを願っているのです」。

 この直截な台詞の内に託された作り手のメッセージは、要約すれば、「地道に生きろ」という言葉に尽きるだろう。

 本作は、地道に生きることから離れていった二人の男が、遂にそのペナルティを受けて、彼らが本来そこに拠って立って、呼吸を繋ぐべき場所に戻っていくまでの、些か説教臭いが、しかし説得力を持つ脚本の鋭利な切れ味によって、一級の人間ドラマに仕上がった映像であった。

 そんな作り手のメッセージの中に、日本人的な無常観が内包されることで、海外での高い評価を受けることになったと思われる。しかし残念ながら、作り手のメッセージに奥行きのある含みが感じられなかったのは、「この国の男どもは、観音菩薩であるべき女たちをあまり泣かすな」という、身も蓋もない短絡的な、「女性=犠牲者」という憐憫にも似た表面的把握が、本作にべったりと張り付いていたからではないか。

主人公の源十郎は一介の、ごく普通の農民であった。彼には美しい妻がいて、可愛い盛りの息子が一人いた。既にそれだけで、充分に至福のときを過ごせたはずの男に変化が起ったのは、彼が農業の片手間に副収入を当て込んで、精を出した陶器作りを始めた辺りからである。

 しかも、時は戦国乱世。身分が未だ流動的な時代下にあって、彼の家族は部落での生活の安定的保障が手に入れられないでいた。農民にとって耕地を荒らされることは、即、生命の危機に繋がるのである。部落を侵入する落武者たちの暴力に対して、彼らは為す術を持たなかったのだ。

 恐らく源十郎は、耕地を喪失することの不安から陶器作りへの生業の変化を急いだと思われる。偶(たま)さか、彼が作った陶器が町の市で大きな稼ぎになることを経験したとき、彼の心は、不安定な農作から即収入を当てにできる陶器作りにのめり込んでいく必然性があったと言えるだろう。

 これが、彼の欲望の第一のステップアップであった。既にこの時点で、彼は細(ささ)やかな幸福のみを求める妻の心から離れていたのである。

 しかし、彼だけがそれを自覚できない。なぜなら、彼が陶器を売って儲けた金で小袖を買って、それを妻に送ったときの至福の表情を記憶にしっかりと刻み付けてしまっているからである。妻にとっては、夫からの贈り物に対する感謝の念を表したに過ぎない思いが、夫の欲望の未知のゾーンを開いてしまったのであろう。

 全ては、そこから始まったのだ。男の欲望のステップは、異界の美女、若狭との出会いによって開かれた。

 無論、その若狭なる美女が死霊であり、そんな死霊が男をどのように利用しようとしたかなどについての言及は、映像の主題性の枠内の中枢に関与しない末梢的な事柄であるに過ぎない。何より由々しきは、男が欲望の高いハードルを越えてしまったという、その欲望の流れ方である。

男は妖艶な女との愛欲の沼に搦め捕られ、酒池肉林の日々を重ねていく。このとき男は、遥かに自らの「分」を逸脱し、その守備範囲を突き抜けて、感情の稜線の不分明な辺りまで駆け上っていってしまったのである。男が開いた欲望の未知のゾーンに、それと全く馴染まない男の無力なる自我だけが晒された。男の噴き上がった感情は、自らの自我を薄明の世界に置き去りにして、初めは馴染みにくかったであろう未知のゾーンに同化していくことになる。

 その頃には、身体の暴走を抑圧できない男の絶え絶えの自我は、無限に伸ばされたかのような、その感情の稜線の存在性に、それなりの合理的な理屈を与えて整合性を図っていくのである。人は常にこうして、内側の亀裂の危機を乗り越えていく。自我が新しい物語(「これが本来の自分の望むべき生き方だった」等々)を紡ぎ出すことで、人は簡単に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていくということである。

 このような欲望の連鎖を可能にするもの ―― それが、私の言う「快楽の落差」である。「快楽の落差」とは、欲望によって手に入れる快楽の落差感覚のこと。

 それは、こういうことだ。

 自分の眼の前に、少し跳躍すれば手に入れられるかも知れない欲望の対象が眩いまでにその輝きを放つとき、余程の強固な抑制因子が内側に張り付いていない限り、人は大抵、その対象に近づくことを止めないだろう。そのアプローチの様態は様々だが、普通の人間ならその対象への一縷(いちる)の警戒感を捨てることなく近づいて、その甘い蜜の香りがやがて脳の快楽中枢を不断に刺激してしまえば、もうその対象を擯斥(ひんせき)することが困難になるはずだ。そして人は、その対象との絶対的距離をどこかで巧みに無化してしまうだろう。距離を無化させた駆動力こそが、「快楽の落差」である。

 自分が今まで味わったことのない種類の快楽と出会ってしまったとき、人はもうメロメロになっている。勿論、快楽の感情は相対的だが、少なくとも、自らが至福と信じたものから離れてまでも、自分が今手に入れた快楽の、殆ど暴力的な被浴が記憶に刻まれてしまったら、人はもうそれ以前の日常世界に戻れなくなってしまうのだ。それが、「快楽の落差」の最も怖いところである。

 厄介なのは、欲望を抑制すべき人間の自我が、そこで手に入れた快楽の被浴を脳の中枢が刺激されることで、既に肥大した欲望の文脈に少しずつ馴化(じゅんか)してしまうことだ。更にもっと厄介なのは、その馴化の流れにひと通りの物語を張り付けてしまうことである。こうして人は、知らず知らずの内に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていき、そしてその速度に容易(たやす)く順応してしまうのである。この順応性は人間の文明を啓いた起動力になったが、同時に、多くの大切なものを喪失させてきた元凶でもあった。

 ここで重要なのは、その欲望を作り出すのは人間だが、しかしその欲望を、全ての人間が均等に手に入れられる訳ではないということである。しかし隣人が手に入れた快楽を、自分だけが手に入れられないという意識に拉致されたとき、人はその快楽の取得を自分の快楽の標的にシフトさせ、そこに向かって動いていく。動いていくことで手に入れられる快楽は、その時代の全ての者の欲望の対象になっていくだろう。

 要は、欲望の対象が自分の手に入れられるだけの距離にあるか否か、ということなのである。今までは欲望の対象にすらなっていない何ものかは、その時点では特定的な価値にすらならないだろう。そんな対象に快楽の誘(いざな)いが待っている訳がないのだ。

しかし、自分の手の届く距離に快楽の匂いを嗅ぎつけたとき、人はそれを手に入れることなしに済まなくなる。そこが厄介なのだ。芳醇な香りを乗せた快楽の最近接が、人の欲望の具体的な対象となって、人の思いを強力に集合させていく。人はこのような快楽の誘いに対して、殆ど無力である。人間の欲望の稜線がどこまでも伸びてしまって、その抑制的管理は困難を極めるだろう。

 人間は限りなく脆弱である。自ら欲望を作り出し、その欲望から、常により価値のあると思わせる欲望を作り出していく。そして、その欲望の無限連鎖の中で、今、まさにそこにある、香しいまでの欲望と上手に付き合えない多くの者たちは、いつの日か、私的状況が抱え込んだ劇薬性に麻痺していって、自らを失い、自らが守るべき大切な何かを失ってしまうことになるだろう。

 本作の主人公である源十郎は、まさに「快楽の落差」の格好の餌食になってしまった。彼にとって村に残した妻子は、何よりもかけがえのない絶対的な何ものかであった。しかし、城下町で嗅いでしまった濃厚な蜜の香りは、彼が今までに経験したことのない眩い輝きを放って止まなかった。それは、この男が本来的に求めていた欲望の対象となるべき何かでなかったはずだが、その対象が男に擦り寄って来たとき、男は半ば警戒しつつも、この未知なる芳香への免疫が形成されていなかったため、芳香の求心力に容易く吸収されてしまったのである。

 まさに女が放った芳香こそが、男を存分に酩酊させる特段の快楽だったのだ。それでも男には、まだ逃げ道が用意されていた。しかし、男は逃げなかった。逃げられなかったのである。男には陶器の勘定を受け取る必要があったという説明は、表面的な把握に過ぎないであろう。男は女の強烈なフェロモンを出会い頭に嗅いでしまったのである。そしてその女から、男の陶器の素晴らしさを誉め称されてしまった。男はプライドまで刺激されたのだ。

 朽木屋敷から、男はもう帰れなくなってしまった。男を搦(から)め捕った「快楽の落差」の威力は圧倒的だったのだ。

 そんな男が屋敷を離脱できたのは、殆ど偶然だった。僧侶との出会いがそれである。男は僧侶と出会うことによってのみ、魔境から離脱することが可能となった。勿論、これは物語だが、しかしその描写のメタファーが示すものは決定的だった。このような偶然的な、他者による強力な媒介がなければ、男はいつまでも魔境に搦め捕られていたことの怖さを、いみじくも検証してしまったのである。

 それでも男が帰郷を果たしたのは、男にはまだ戻るべき場所があったとういことを意味する。男には、「本来の場所、本来の姿」に戻るべき何ものかがあったこと。これが男の再生を約束させた決定力になったのである。もし、男が戻るべき場所を持っていなかったら、男の再生は覚束(おぼつか)なかったに違いない。男が刹那主義の人生に流れていった可能性も捨て切れないのである。

 従って、戻るべき場所を持つ者だけが再生の道を開くことが可能であるとも言えるだろう。人間のその本来的な脆弱さを鮮烈に描いた本作は、その意味で最も根源的で、本質的な映像表現であったと把握できる。

物語はその内側に、何ともおどろおどろしい妖怪譚を挿入させたが、これは物語の仕掛けとしては一見安直だが、しかしそのような導入なしに済まないほどの映像の主題性を、物語の基幹ラインを貫流する文脈の中で、そこだけは外せない程度の重量感を持って、確として内包させていたことを認めない訳にはいかないで あろう。

 思うに、「快楽の落差」を本来の欲望の次元に下降させるには、最も分りやすい形での、一種世俗的なる妖怪譚を導入せざるを得なかったということではなかったか。そうでもしない限り、「快楽の落差」の問題を、人の自我が克服するのが容易ではないということを表現的に検証できないと、本作の作り手は考えたのかもしれない。

 それが、本作に対する殆ど独断的な、しかし常に評論のコアに心理学的な視座を捨てられない、既に中年の域を超えた私の基本的把握である。



竹山ひとり旅(新藤兼人)


〈生〉を絶対肯定するエピソード繋ぎだけの前半の冗長さから、ラスト20分で爆発する「反差別」へのシフトが劇的であっただけに、映像構成の些か不安定な流れ方が気になったが、〈生〉と〈性〉を包括する定蔵(後の高橋竹山)の青春の日々の彷徨に決定力を与える映像構築力には、相当の力動感があり、感銘も深かった。

 「目明きは、汚ねえ!」

 定蔵に、この一言を叫ばせるための映像だったのか。そう思わせるに足る、ラスト20分の爆轟(ばくごう)だった。

 その辺りのエピソードを再現しよう。

 鍼灸師の資格の取得のために入学した盲唖学校の教師から、定蔵は妊娠した教え子のみち子の胎児を認知してくれという信じ難き相談を受け、悩みつつも引き受けた。教師の自分勝手な行動を「個人主義」と批判しながら、その人柄の良さを信じ切っていたからである。映像の中で、定蔵の、他人を見る能力の児戯性が最も顕在化したシーンであった。

 教師を信じ切った定蔵は、ものの見事に裏切られるに至った。盲唖学校の教師の話の詳細は、単に自分がみち子に孕ませた子を認知させるために、人の良い定蔵を巧妙に説得する嘘話だったのだ。

 盲唖学校の校長から、その話を聞き知った定蔵が、「目明きは、汚ねえ!」という叫びを刻んだのはその直後である。この叫びに集約されるラスト20分の爆発が、映像を根柢において支配していると言っていい。

高橋竹山
そこでは、門付けの命とも言える三味線を捨てて、白一色の厳冬の自然の世界の中に、敢えて甚振られる如き、文字通り、「一人旅」の彷徨を繋ぐ絶望的な時間が冷厳に記録されるのだ。

 「お母さん、うちの人ば、探しに行きてぇ」

 これは、定蔵の妻であるフジが、その不自由な身体のハンディを鞭打ってまで、義母(定蔵の母のトヨ)に放った、覚悟を括った言葉である。涙を浮かべるだけで、嫁の思いを受容する母。

 一方、三味線を捨てた定蔵は、今や尺八の門付けとなって、冬の陸奥路を彷徨している。みち子の実家の前で、尺八を吹く男が立ち止まった。定蔵である。盲目のみち子には、意図的に言葉を発しない定蔵を特定できないのだ。

 その定蔵を追って、盲目のフジを紐に繋いで、トヨが誘導する困難な旅路を、母と嫁が匍匐(ほふく)していくのだ。そして二人は、みち子の実家を訪れた。そこで、みち子から尺八の門付けが訪問したことを聞き知って、定蔵を特定したのである。

 まもなく二人は、地面に倒れている定蔵を発見した。下手な尺八の門付けによって、地元の男から殴られたことなどで、定蔵は殆ど生命の律動感を喪失していたのだ。

 「定蔵、おめえ、ここで何ばしてらぁ。死ぬ気だか。俺たちゃ、おめえを探しだすまでは、この世の果てまでも、歩き続けるべと思うたぞ!」

 トヨは息子を叱咤した。

そのときだった。盲目のフジは這って、這って、定蔵の元に行き、必死に抱きしめた。

 「おめえば、やっぱり三味線ば弾く人だ」

 困難な旅路を繋いできたフジの言葉は、それ以外にない決定力を持つ叫びとして刻まれたのである。

 「定蔵!三味線ば、持て!」

 このフジの叫びを、トヨの一言が強力に補完した。ラストシーンの映像は、三味線を手にした定蔵が門付けの旅を繋ぐ姿形を捕捉するものだが、男の内側に凛として根を張る〈生〉への意志が、後の竹山の表現宇宙への架橋を充分に想像させるに足るものだった。



シコふんじゃった。(周防正行)


「達成動機づけの帰属理論」で有名なバーナード・ワイナー(米国の心理学者)は、成功と失敗の因果関係の要素を、「能力」・「努力」・「課題困難度」・「運」の4つの要素で示したが、前二者が内的要因で、後二者が外的要因という風に把握し得るもので、この仮説を援用して本作を批評したい。

本作で描かれた弱体相撲部の面々には、これらの要因の中で、最も重要な「能力」・「努力」・「課題の困難度」の3つの要素が、彼らの成功要因を妨げる重大な障壁となっていた。とりわけ、「能力」・「努力」という内的要因の延長された低度と、3カ月後に迫った3部リーグ戦の突破という「課題困難度」との間には、相当の乖離があった。従って、「出たとこ勝負」の「運」のみで突破するのは、殆ど絶望的状況であったと言える。

それ故、少しでも、「道修行」としての相撲の力量総体のレベルを上げていくに足る、絶対的必要条件がそこにあったにも拘らず、この重大な障壁を突破することの困難さを顕在化させていたもの ―― それは、彼ら自身が早々と、「課題困難度」 の障壁の堅牢さを主観的に認知していたために、成功のための必須な内的要因としての、「能力」の向上に繋がる「努力」の無意味さを感受してしまっていたか らである。

単に、だらだらとシコを踏み、稽古を重ねるだけでは、弱体相撲部の力量総体の底上げの強化は覚束(おぼつか)ない。元より、未経験者を寄せ集めただけの、弱体相撲部に集合した面々の動機には、卒業に必要な単位取得の条件で、気の乗らない相撲部員となった主人公の他、家賃不要という理由で相撲 部寮入りを果たした留学生、単に肥満だからという理由で勧誘された小心で孤独な学生、美人の相撲部マネージャーへの恋慕で入部した主人公の実弟、その実弟 への恋慕で押し込みヘルパーとなった肥満女子、等々、それぞれ差異がありながらも、部員の全てが主体的意志によって媒介されたものでないことは確かだった。

だから彼らには、何よりも相撲部員としての、最低限の尊厳を保証するに足るモチベーションの革命的底上げが必要だったのである。このモチベーションの革命的底上げを巧みに誘導したのは、本作の主人公である山本秋平の卒論指導教授であると同時に、元学生横綱で教立大学相撲部の顧問・穴山だった。

穴山の実家に合宿に行った相撲部の連中が、そこで味わった決定的な屈辱。「腕白相撲」をバカにした相撲部の面々は、背丈の劣る「腕白相撲」の小学生に、悉(ことごと)く負けてしまうのだ。

「相撲は、いかに相手のバランスを崩すか、それが大事なんだ」

穴山のレクチャーである。

気が強いだけで、相撲部の面々の中で最も体力が劣る秋平の弟の春雄は、小学生に押し倒されて負けた悔しさで、相手の小学生に暴力を振るう体たらく。それを視認した穴山が、「もう一回!」と向かっていく所に、的確なアドバイスを与えたことで、初めて小学生に勝ったのである。

まもなく、穴山と相撲部員との戦法授受によって、連戦連勝の弱体相撲部の面々の得意顔が映し出されていく。小学生相手の練習試合を巧みに仕掛けた穴山の戦略が見事に嵌って、弱体相撲部の面々に変化が表れる。

即ち、モチベーションの革命的底上げによって、「能力」・「努力」・「課題困難度」という、成功と失敗の因果関係に大きく関与する内的・外的要因の圧倒的なハードルの高さを、ほんの少し下げるための覿面(てきめん)の効果を発揮していくのだ。

この辺りは、如何にも、「道修行」のオーソドックスなプロセスを描いた予定調和のスポ根ムービーのフラットな物語であるという印象を拭えないが、登場人物の絶妙な関係構造と、その交叉が無駄なく描かれていたこと。これが良かった。

例を挙げると、以下のエピソードに集約されるだろう。

相撲部の存続のために8年生にまでなっている、竹中直人扮する、最弱の古参部員の青木 が、3部リーグ戦での「運」による外的要因子の勝利(下痢が我慢できずに、立会いの際に突き出た頭が相手に当たって初勝利)が推進力となって、初めて自信が芽生え、「得意」の「内無双」で完全に勝利するケースに象徴されるように、内的要因である「能力」・「努力」によって、最大の障壁であった外的因子の 「課題困難度」を克服する、2部交代戦の突破まできちんと描き切っていたこと。

恐らく、この辺りを「最終到達点」にした映像構成の落しどころの上手さが、考え抜かれた娯楽映画の骨格を成していた。当然ながら、そこには、「たかが相撲」という安直な把握で物語を構成しなかった、表現者としての真摯な姿勢が明瞭に映像化されていて、最も好感が持てる一連のシークエンスだった。

このようなモチベーションの形成をしっかり描くことで、本作は極めて緻密な構成力による、構築性の高い娯楽映画としての輝きを放っていったのである。



夫婦善哉(豊田四郎)


これは、本来的に虚栄と切れた男と、それを自ら肩代わりして必死に繋ごうとする女との、極めて時代との均衡を欠いた人間ドラマの一篇である。

 物語の背景となった時代は、大正から昭和にかけての、まさに「男の虚栄」をシステム的に補強した擬似父性社会とも言える、「強靭なる近代」という特殊な歴史のステージの内にあった。

 そんな時代で、男は極限的なまでに依存し、女はそれを全人格的に受容する。

 そこには、ダメ男に惚れ抜いた女の弱みが剥き出しにされるが、その弱みに付け込んでも決定的に依存する男の甘さは、そんな男の自我から一切の虚栄を剥ぎ取らない限り、表現しようのない意識と生活の様態だった。
 
 男はなぜ、それほどまでに依存するに至ったのか。
 男の依存性を受容する女がいたからである。

 女はなぜ、それほどまでに依存を受容するに至ったのか。
 女の受容を必要とする男がいたからである。

依存に向う男と、それを受容する女。この二人の感情を継続させたのは、そこに男を求め、女を求める確かな感情が存在したからである。
 
 しかし女にとって、男の存在は絶対的であっても、男にとって女の存在は、女のそれよりも絶対性を持っていなかった。それ故、そこに微妙な落差が生まれ、 一方では嫉妬と独占の感情が崩された分だけ、心理的リスクを負った女の献身が、他方では、女のそれらの感情に抑制を強いられてもなお、道楽を捨てられない男の我がままが、恰もそれが補完し合う関係の如くクロスした。

 いつの時代でも、関係の内にしか見えない固有の感情の繋がり方が存在し、そこに他者の勝手な評価が侵入できないバリアが、本人たちの意識とは無縁に張り巡らされている。それにも拘らず、本作における男と女の関係の様態は、あまりに個性的であり過ぎた。だからそれは、市井の日常性から拾われた物語の、ごく普通の切り取りの題材のように見えながらも、斜に構えた男のデカダンスの、一種の理念系の極北の様態のようにも見えるのだ。

 それは「開き直りの放蕩美学」とも呼べる何かであった。少なくとも私には、そのような把握以外に辿り着けない物語ラインでもあったということである。

柳吉という男の凄さは、あろうことか、「男の虚栄」を捨て切った世界の中で全面展開していたという点にある。

 このような類の「ダメ男」を描いた映像作品は多いが、しかし成瀬の作品に登場する、多くの「ダメ男」たちの振舞いを想起すれば分るように、彼らのいずれ もが姑息であったり、狡猾であったり、一見紳士的であったり、傲慢であったり、或いは、気弱な優男であったりしても、そこになお張り付く虚栄の片鱗が明らかに存在していた。成瀬の「ダメ男」たちには、自分のダメさをどこかで隠そうと努めるちっぽけだが、しかし彼らにとっては、それなりに切実な見栄が垣間見えるのである。それ故にこそ、成瀬作品の男たちは滑稽であり、リアルであり過ぎたのである。

 ところが、柳吉という男に至っては、この国の男たちが時代にサポートされて何とか守り抜いてきた、そんな虚栄の欠片すらも見られないのだ。だから、今この作品を現在の時代感覚によって観賞するとき、この愚かな主人公に対して憤りの感情すら抱いてしまうのである。

 この男の能力の欠如さは極めつけだ。

 ただ単に、大商家の看板にのみ縋って、その財産の分け前だけを目指して止まないのである。しかも男の作戦は悉(ことごと)くしくじって、いつも男をフォローする献身的なる女に救われるという、まさに極北的な放蕩人生のリピーターぶりなのだ。

 このような類の「ダメ男」は、よくよく考えてみれば、この国の男たちに共通する、ある種の虚栄のメンタリティとは完全に切れているということである。

 だから私は本作を、後年、「無頼派作家」の一人と称された原作者(織田作之助)の、その戯作派的人生道の理念系の産物以外には見ないのである。因みに、「無頼の美学」というものがあるとすれば、私はそれを、「一切の規範性からの確信的逸脱」という風に把握している。
 
 まさに柳吉なる人物は、規範の逸脱者の典型でもあった。

 しかし確信的ではなかった。この男は単に、甘やかされた放蕩息子であり、怠惰なる生活者であり、そして呆れるほどの依存者であった。その意味で、この男 は「無頼の美学」のカテゴリーに包含されないが、しかし、そのような男を描き切る原作者の確信的な視線が、常に背後に漂流していたと言えようか。

 その原作者の理念系の産物のもう一つの典型が、男を支える女の描写にあったと考えるのは、あながち見当外れな把握ではないであろう。女は自分がぞっこん惚れている男について、自分の肉親にこう言い放ったのだ。

「わてわな、何も奥さんの後釜に座るつもりはあらへん。あの人を一人前の男に出世させたら、それで本望や。ホンマやで。ホンマにそない思うて、一生懸命稼いでんやで」
 
 更に女は、入院中の男を見舞う男の妹から、男の父が女のことを褒めているという話を聞いて、その感激をこのような表現で返したのである。

 「へぇ。お父さんが、そない言うてくれはってるんのやったら、わては身を粉にしてでも、どないしてでも・・・安心してておくれやす」
 
 この女、蝶子は、まさに男が本来的に捨て切った虚栄の欠片を自ら拾い上げて、それを何とか、男の人生に繋ごうとまで考えているのである。

 こんな女がこの世に存在しないと言い切れないのが人間社会の面白さだが、それにしても、このような女の造型は、明らかに理念系の結晶であると読む以外にないのだ。なぜならば、それは殆ど「無限抱擁」の世界だからである。

 この国で「無限抱擁」が可能なケースは、「我が子」に向う母の心情ラインに収斂される何かであるに違いない。寛解不能な本来的な放蕩者に対して、異性感情が脱色してしまえば、男は確実に女に捨てられる運命にあるだろう。それだけは、ほぼ確信的に言えることだ。

 その意味で、本作について、その完成度の高さを評価するのに決して吝(やぶさ)かではないが、それはどこまでも、物語の世界であることを忘れてはならないだろう。偶(たま)さかこの世に、こんな男女がいて、こんな物語があった。しかし、その物語の先に展開するだろうリアリズムの恐怖について、私たちが普通の感覚を持つならば、当然の如く、その流れ方を読解できるはずである。



鶴八鶴次郎(成瀬巳喜男)


「ねえ、お豊ちゃん、あんた本当に帝劇に出るつもり?」
「ええ出ます。あたしはもう一度高座へ出て、昔の人気を取り戻してみたくなったの」
「それは願ったり叶ったりだけれど、ご主人が何て言うかな」
「大丈夫。許してくれるに決まってます。もしもいけないようなら、いっそ離縁を取って、独りになります。あたしはこの生きがいのある芸の仕事に、もう一度惚れ込んだのよ」

この極めつけのような会話の決定力。女のこの表現が、本作を根柢から支えていると言っていい。

ここで、「お豊ちゃん」と呼びかけた男が鶴次郎で、その「お豊ちゃん」が鶴八。共に新内語りの名コンビだが、この会話の状況の背景は、芸と愛情の縺(もつ)れによって仲違いをして、2年間に及ぶ関係の断絶の挙句、一方は芸の道から離れた金満家の妻となり、他方は身を持ち崩してどさ回りの芸人となっていたが、周旋屋の佐平らの尽力で、再び名人会の高座に出演し、それが大成功を収めて興奮覚めやらぬ楽屋での一齣(ひとこま)である。

鶴八は先代の一人娘で、鶴次郎は先代の直弟子。

 浄瑠璃を語る太夫の鶴次郎と、三味線弾きの鶴八の若いコンビの二人は、お互いに男女の感情を意識しながらも、芸に対する深い思いの故に、それぞれの芸に対する把握の内実が微妙な差異を見せていて、事あるごとに衝突してしまうのである。

 具体的には、先代の教えを忠実に守り、それを表現していくことに自分の芸の意味を見つける鶴次郎と、母である先代のコピーをすることに、少なからず、拒絶反応を示す傾向を持つ鶴八との対立の構図と言っていい。

 しかも厄介なことに、芸術観の相違による二人の衝突の内に、相互に思いを寄せる男女の感情が深々と絡んできてしまうから、この関係修復の行程の軟着点の困難さが、時として、決定的な事態を招来してしまうのだ。加えて、そこに三角関係の様相が尖って顕在化するように見えたとき、男の悋気(りんき)が不必要なまでに暴れてしまって、順風満帆の日々が続いたのも束の間、二人の新婚もどきの関係は呆気なく壊れてしまうのである。

 鶴八と別れた鶴次郎が、どさ回りの芸人に身を持ち崩して、宿賃も払えないで堕ちていき、悲哀を極める男の内面世界の澱みを描き出すシークエンスは、映像総体をしっかり支えていて、作品に豊饒な膨らみを保証したと言える。

周旋屋の佐平らの尽力によって、再び名人会の場に戻って来た二人は、2年間のブランクを感じさせない巧みな芸によって大喝采を浴び、あわよくば、帝劇への出演のチャンスを掴みかける状況を作り出したのである。その好機を目の当たりにして、芸一筋に生きんと欲する鶴八の強い意志を伝える会話が、冒頭の会話である。

 ところが、夫と別れる覚悟をも括った鶴八の態度を見て、どさ回りですっかり疲弊した鶴次郎が困惑し、女の芸の拙劣さを厳しく批判することで芸道への復帰を諦念させるという、ケチなひと芝居を打つ。

一時(いっとき)の人気に終始する危うさを持つ芸人稼業の虚しさを、嫌というほど味わった男から見れば、本来の女の幸福が金満家の妻の生活にこそ存すると考えたのは、寧ろ、自然の成り行きであったようにも思われる。

 この決定的な場面において、男の配慮が「自己犠牲的な精神」を発揮したかのような描写によって説明された後の物語展開は、自分が打った芝居の事実を周旋屋に告白し、彼と共に場末の飲み屋での苦い酒盛りのうちに映像が閉じていくのである。

この完璧すぎる映画を、どう読み解いたらいいのか。

それを要約すれば ―― 兄妹のように育てられながらも、「ウエスターマーク効果」(男女が幼少時より共存すると、性的感情が生まれにくいという心理現象)も発現することなく、半生にわたって一人の女を特定的に愛したため、その女に対する独占支配感情の過剰さによって破滅していく男の物語という文脈である。

 「自己犠牲的な精神」を発揮したと信じる幻想によって、ほぼ近代的自我を立ち上げていた女の、その強靭な願いまでも奪い去るほどの独占支配感情に呪縛されていた男の自我の偏頗(へんぱ)性と、その爛(ただ)れ方、そして、そこに起因する人生模様の悲哀 ―― これが、私の本作への基本的把握である。

異性に対する過剰な悋気による嫉妬感情は、間違いなく、対象人格への独占感情をも惹起させるだろう。「この女は俺のものだ」という情感ラインが、「この女は俺だけのものだ」という独占的支配感情にまで高まっていくのである。

 ところが、そこに自分の感情を鮮明に表現することを躊躇(ためら)う男の虚栄心が深々と媒介することで、その特定的な異性感情は、その虚栄心の尖り方に比例して内側に屈折していくだろう。

 しかも更に厄介なのは、男の独占支配感情が新内芸の独自性を追求する女の、本来的に創造的で、その主体的な精神世界までをも支配しようという意識を、不必要なまでに顕在化させてしまったのである。物語の最終局面で放った、なお愛しい女に対する男の大芝居は、どこまでも喰えない男にとって、女の幸福を願う純粋な感情表現であったに違いない。

 しかし、そこでの「自己犠牲的な精神」の発露もまた、そのような芝居を打つことによって、女の未来の時間を自分が管理掌握しようとする感情の表れであると見ることができるのだ。

なぜなら女は、心優しく穏健で、抱擁力を持つ夫と離縁してまで、自分の芸の創造的な継続の意志を、男に対して強靭な言葉を結んでいたのである。女の幸福は男によって決められるものではなく、女自身が自ら選択し、決定づけていくという極めて近代的な観念の文脈が、そこに濃密に窺えるが、男はその繊細な内面世界にまで踏み込んで、新派人情劇のような大芝居を打つに至るのだ。

 自己基準を押し付けるな!

 本作を、悲哀を極めた感のある男の側からでなく、その男によって翻弄され続けた女の側から見ていくと、恐らく、女の感情を集約するのは、このような言葉による噴出であるに違いない。要するに、この映画のサブタイトルは、「『自己基準』に崩された愛、砕かれた芸道への夢」という表現こそが相応しいだろう。



松ヶ根乱射事件(山下敦弘)


本作では、必ずしも、「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」が十全の機能を果たしていない家庭が中心的に描かれているが、その家庭の欠損性に乗じるかのように、そこに 侵入してきた「非日常の毒素」によって、件の家庭の欠損性がじわじわと侵蝕されていくことで、それでなくとも風通しの悪さの故に劣化した、ミニマムな「自己解決能力」すらも失いつつあるプロセスを、ブラックユーモアを内包したコメディタッチで淡々と描き切った一篇 ―― それが「松ヶ根乱射事件」だっ た。

 「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」の保守性のうちに依拠していた地域コミュニティの復元力は、刺激情報をもたらす外気との出し入れが少なかった分だけ地力逓減させ、「非日常の毒素」への免疫耐性の脆弱性を恒常化してしまっているだろう。

白銀の世界に横たわる赤いドレスの女の死体(?)に、ランドセルを背負った児童が、その女の胸や下半身を触るという、映像冒頭のインモラルなまでに過剰なシー ンに端を発した「轢き逃げ事件」が、「自己完結的な閉鎖系の生活ゾーン」に馴致した人々の日常性に、加速的に波紋を広げていく。

 本作で中心的に描かれた、「日常性のサイクル」が十全の機能を果たしていない家庭を構成する面々とは、以下のラインアップ。

 認知症の祖父。不倫の「確信犯」で、不在の父。近所の理髪店の女の家に転がり込んでいる父に代わって、畜産業を営む母と姉。

 この家の女は、その父が不倫相手の娘を孕ませたことで、近所に顔向けできないでいて、ウツ的な母と、尖り切った姉の不満が絶えない。その父母には、双子の兄弟がいる。体が小さく、小心者の兄の名は光。体が大さく、警察官をしている弟の名は、光太郎。

 光こそ、東京での自立に頓挫し、帰郷するや否や、「轢き逃げ事件」を惹起した張本人だ。そして、「轢き逃げ事件」で検死中、赤いドレスの女が蘇生したことから、本物の事件が開かれていく。

 赤いドレスの女の名は、みゆき。極道風情の男の情婦だった。因みに、その名は西岡。

 二人は早々と、「轢き逃げ事件」の張本人である鈴木光を特定し、この寂れた地方都市で彼らが目論む犯罪の手伝いを暴力的に強いるのだ。彼らが目論む犯罪の内実とは、冬に結氷湖と化す白一色の世界の一画に、アイスピック等を使って穴を穿ち、湖底からバッグを引き上げること。そのバッグから出てきたのが、金の延べ棒と男の生首という、ホラー含みの仰天の展開だ。

 小心者の光は腰を抜かすばかりか、以降、西岡らに、今は空き家になっている鈴木家の古い家屋に居座られてしまう始末。

 一方、事情を知らない警察官の光太郎の関心は、派出所の天井を騒がせるネズミ捕り。光太郎にしか聞えない、派出所の天井を騒がせるネズミ捕りに執心するが、失敗の連続に、彼のストレスもまた膨れるばかりだった。

「日常性のサイクル」を普通に繋いできた光太郎が、兄との関係で疑義を持った西岡こそ、「非日常の毒素」の本体であるが、彼らの追い出しが上手くいかず、その苛立ちを隠し切れず、ストレスを累加させていく男の振舞いが映し出されるのだ。当然、ネズミ捕りの失敗の連続が、彼のストレッサーの最大の因子だった。

 以下、同僚警官との会話。

 「やっぱり、道絶たないとダメなんじゃないですかね。一匹一匹捕まえてたら、キリないですもん。大元封じ込めないと、どんどん入って来ると思うんすよね」
 「あのさ、本当にいるの?ネズミ。俺、一回も見た事ないんだよな」
 「絶対いますよ。天井走るの、何度も聞いていますもん。やっぱりね、元から塞ぐべきなんですよ」

 これは、光太郎の自我が追い詰められていく伏線となる会話だった。

このように、鈴木家の面々が、少しずつ、或いは、決定的に「日常性のサイクル」から逸脱し始めていた、そんな渦中で惹起した「大事件」 ―― それは、鈴木家の父親が転がり込んでいる理髪店の女の娘である、知的障害を持つ春子に、父親が孕ませたと噂される子供が、近々産まれるという由々しき事態だった。

 そして今、その日がやってきた。春子が産気づいた事実を知った父は、慌てて春子の病院に行くのだ。

更に、「轢き逃げ事件」の張本人である鈴木光は、生首の発掘を経て、光太郎に事件の告白をしていたが、警察への通報を断念させた直後、憎き西岡にリベンジするために討ち入りに行くのである。その結果、相討ちとなり、両者とも病に伏せる痛手を負うという顛末を、そこもまた、「ブラックユーモア」含みで、映像は切り取ったのである。

まもなく、光太郎は市役所の建設水道課に行って、水道水や浄水場、ダムに殺鼠剤を撒くことを本気で相談するが、役所の者は、その本気の表情を目の当たりにして反応できないのだ。

 「中途半端じゃ、ダメなんですよ。根元から絶ちたいっすよ。一匹でも逃しちゃうと、あいつら、すぐ増えちゃいますからね」

 これが、光太郎の捨て台詞。

 一方、無理押しして乗っ取った、鈴木家の古い家屋の玄関に、「非日常の毒素」であったはずの西岡の情婦は、「西岡ゆうじ・みゆき」の表札を掲げるのだ。

 その直後の映像は、決して無傷では済まなかったであろう鈴木家の面々が、かつてそうであったような、元の日常性に戻っていくシーンを映し出した。

本作で特定的にチョイスされたのは、一つの劣化した家族を襲う、「非日常の毒素」の本体であった西岡とその情婦が、「松ヶ根名物 しあわせを呼ぶキンホルダー」を1ヶ5千円で売り出す行為に象徴されるように、「定着志向」の凡俗性に流れることで見えにくくなるという顛末の、ブラックユーモアの究極のデトックス(解毒)。 

物語を根柢から変容させていった根源の一つである、「非日常の毒素」それ自身が、この寂れた地方都市の自己完結的な小宇宙に同化していくことで、一切が閉じられていったのだ。

この架空の地方都市に住む者たちの「負の象徴」として描かれた、劣化した家族である鈴木一家もまた、呆気なく、「日常性のサイクル」を復元していくという件(くだり)の中で、一人、光太郎のみが置き去りにされていく。

 「ネズミばっか増えてよ」と嘆息し続けた挙句、遂には、「仮想敵」の曖昧さだけが累加されて、それがフラストレーションとなって飽和点に達したとき、物語の主人公である光太郎は、事態の根源である、「仮想敵」との不断の闘いへの決着という基本スタンスからではなく、単に、絡みつかれた狂気にまで溜め込んだストレスを炸裂させるためだけに、派出所前の路傍で5発の銃丸を放ったのである。

 「すいません。もう、大丈夫です」

 それ以外にない「自己完結点」に流れ着いた、ラストカットでの、同僚警官に放った彼の象徴的な言葉のうちに一切が収斂されるのだ。

 「アンチ・ハリウッド」の気概すら感じさせる、何という見事なオチか。



(成瀬巳喜男)

 
「妻」は、「めし」、「夫婦」から続く、所謂、「夫婦三部作」の掉尾(とうび)を飾る傑作である。それも地味で、観られる機会が少ないが、しかし、内容的には前二作と全く引けをとらないどころか、寧ろ、そこで描かれたものの濃密度において、それらを上回る傑作であると、私は評価している。
 
 三作を通して観た人ならすぐ分ることだが、中年以降の人生を共存していく伴侶に対する「愛情」の重量感において、この作品は決定的に異なっているのである。少なくとも、前二作には、相手を思いやる感情が人並みか、或いは、それ以上に包含されていて、その感情の集合が、束の間、破綻の危機を顕在化した状況下で本来的な復元力を検証し得たのである。

 結婚した男女の共存がやがて中性化したとき、人は通常それを「倦怠期」と呼ぶ。しかし私たちは、その倦怠期で味わう空洞感や喪失感を、皆、それなりの対応で克服していくだろう。      

ここで重要なのは、それを克服するときのコアもまた、「愛情」であるということだ。愛には共存によって培ってきた相手への特別な思いや、「親愛の情」というものがある。これが緊要なのだ。これがあるから、人は伴侶との関係を簡単に捨て切れないのである。

成瀬の「夫婦三部作」の前二作における夫婦関係には、「親愛の情」が明らかに形成されていた。「めし」における妻と、「夫婦」における夫には嫉妬感情の一定の形成も見られていて、そこに、異性愛の残存感情が張り付いていたことも否定できないだろう。その感情を含む「親愛の情」が崩壊していなかったからこそ、彼らは決定的別離に流れていくことはなかったのである。

ところが、この「妻」という作品における夫婦関係は、その関係を決定的に繋ぎとめていく「親愛の情」の形成ですら、今や形骸化しつつあって、殆ど絶え絶えの継続力を晒すばかりなのである。

妻、美種子の里帰りに端を発した覚悟の愛人訪問は、鬼気迫るものがあった。美種子のこの気迫の起動力は、一体何だったのか。

 一貫して夫に対する親愛の情を失った女をして、そこまで気迫に満ちた行動に駆り立てたものは一体何か。

それを一言で説明すれば、「妻の座」への執着心と、その座を奪う者に対する憎悪感情であるだろう。

 「妻の座」への執着心の内には、それを奪われることによって喪失しかねない生活の日常的基盤がある。彼女は編み機の副職で家計を助けながらも、未だ社会的に自立し得る経済的努力を経験してきていない。女が自立して生きていくのが困難な時代にあって、大抵の女性は「妻の座」を手に入れて、そこに永久就職するのが一般的だった。美種子もまた、そんな普通の女性の範疇に含まれる種類の女性だったのである。

 しかし彼女には、「めし」、「夫婦」の妻たちのような、夫に対する献身性が殆ど見られない。台所仕事も疎かにするそんな女が、「妻の座」を安易に、しかも継続的に確保できると考えたのが間違いだったのである。

当然の如く、そんな夫婦が倦怠期を迎えれば「共存感情」が一層稀薄化し、関係の中性化も一気に加速するであろう。美種子の夫、中川十一から見る美種子の一挙手一投足は、とうてい受容し難い振舞いのように見える。それを知ってか知らずか、美種子の方も夫からの視線を気にする素振りすら見せないのだ。このことは、妻の眼から見た夫の存在感の稀薄性を検証するものである。

 彼女の視界には、夫の存在の異性性の濃度が剥落し、その存在を中性的な何ものかとしか把握できていないのである。従って、夫の浮気によって妻の悋気が噴き上がったのではない。そんな中性的で、甲斐性のない夫に浮気されたことそれ自体が、彼女にとって許し難かっただけなのである。
 
 十一にとって、浮気の対象人格であった相良房子の中に、自分の妻にはない上品さと教養を感じ取った。そこに仄かに漂う色香に、十一は男として明らかに反応し、強い愛情を抱くに至ったのである。房子の中にある魅力は、十一が恐らく異性に対して本来的に渇望していたものであるに違いない。

 一方、彼は妻の美種子が下品な振舞いをするときの、十一のあからさまな不快な表情には、時間と空間を共存する大切なパートナーとしての受容度が完全に欠落していた。この男が、そんな妻と全く対象的な振舞いを見せる未亡人に魅かれたのは、あまりに当然だったと言える。
 
 然るに、中川十一という男は、生まれて初めてであろう灼熱の恋のパートナーを、決定的な局面で手放してしまったのである。大阪での逢瀬の一夜を、彼は確信的に継続させようとはしなかったのだ。それでいながら彼は、いつもどこかで不倫の恋を求めていて、愚かにも、その思いを正直に妻に告白することさえしたのである。

 妻に告白しながらも、彼は妻に離婚を迫ったりしないのだ。妻の実家からのクレームが来たときも、彼はその夜、妻の実家に訪れるという約束から逃避したのである。

 要するに、この男は何から何まで中途半端なのだ。嘘を突き通す能力がないにも拘らず、どこかで房子との不倫を求めている。妻と離婚する決意もないくせに、上京した房子と逢瀬を重ねようとする。

 結局、この男は、妻の覚悟を決めた行動によって、最も大切なものを失う羽目になってしまったのである。一切は、男の覚悟のなさに起因するのだ。映像は、覚悟なき者が不倫に走ることの怖さを身につまされるような形で、観る者に提示してきたのである。

 
 
証人の椅子(山本薩夫)


力強い映画である。しかし最後まで「ミシシッピー・バーニング」を観終わったときのような、予定調和的なカタルシスが手に入らない。

 冤罪を訴えて怯まず闘う、被告とその身内たち。

1953年に発生した強盗殺人事件・「徳島ラジオ商殺人事件」という実話を題材にした映画の完成度も高い。社会派の作品にありがちな過剰な思い入れも抑制されている。不条理な状況に放り出された人間たちのその苦闘のさまが、粘り強く、それ故に深々と描かれていて、一本の秀作に結実された。カタルシスを必要としない映画だったのである。

 「それはありきたりで、平凡な、曲のない事件のように見えた・・・」
 
 この冒頭のナレーションから、その後の世論を沸騰させるような冤罪事件と目される、際立って陰湿で、忌まわしい事件の幕が開かれた。

 1953年11月5日、徳島市の小さなラジオ店で、その事件は起きた。家族の者が寝静まった夜、当店に強盗が押し入って、その店の主人が殺害されたのである。

 主人の名は、山田徳三。体全身に9箇所の傷を受け、それが致命傷となって絶命したのである。また徳三の内縁の妻である洋子も数箇所の傷を負ったが、幸い致命傷にならず、一命を取り留めた。

 洋子は病院のベッドで、担当の刑事に事件の経験譚を生々しく語っている。

 彼女によると、寝床に入ってウトウトし始めたとき、外から男の声が聞こえた。
 
 「奥さん、奥さんおいでるで」
 「誰で?誰で・・・」
 
 その声の主を特定しようと、洋子が呼びかけた瞬間、相手の男の激しい圧力を受けて、その圧力に抗っていた主人の徳三がまもなく倒れ込んだ。その傍らにいた洋子もまた、左脇腹に鋭い痛みを感じて、その場を動けなくなるが、逃走する犯人を追って行ったと言うのである。

 目撃者は何人かいたが、事件が夜の闇の中で起きたので、顔の判別が困難だった。匕首(あいくち)の持ち主が逮捕されたが、目撃証言と合致せず、結局釈放されることになったのである。いよいよ事件は、迷宮入りの様相を呈することになっていく。

ここでは、この事件にインボルブされ、しばしば心が折られながらも、国家権力との「闘争」を継続させていった浜田流二のケースについて言及する。

 彼は一貫してスーパーマンを演じたのではない。

 彼もまた、最初の拘留の際に激しい動揺を見せ、狼狽(うろた)えていた。映像で見せたこの男の強靭な生き方とその態度は、初めからこの男の中に内在されていたものではないのである。

 彼が幸いにも釈放されたのは、明瞭なアリバイがあったからだ。もし彼にアリバイが成立しなかったら、この男のその後の一貫した行動の軌跡は、必ずしも約束されたものではなかったかも知れない。

 浜田流二は義理の叔母である葛西洋子が上告を断念して、服役生活に入ることを括ってから、映像の世界で、一頭地を抜きん出たかのような役割を演じていく。その獅子奮迅の活躍は、反転攻勢に踏み込んでいく者が自ら開いた全人格的な疾駆であった。

 彼の最大の功績は、二少年を精神的にサポートすることで、彼らの自我が恒常的に安寧を維持する、その拠って立つ基盤を整備して見せたことである。
 
 「この人だけは信じられる」
 「この人だけは自分を裏切らない」
 
 浜田流二という男の存在感は、少年の自我にこのような思いを抱かせ、そこに堅固な心理的担保を保証したのである。

少年たちの未成熟な自我が捕捉したのは、人間の醜悪なる様態であった。彼らの前に立ち塞がった、「正義」の執行官であるべきはずの高学歴の男たちが、 あろうことか、自分の正当なる供述を退けて、犯人でもない女主人による犯行を裏付ける嘘の供述を脅迫的に迫ってきたのである。それが連日連夜続いたこと で、彼らの年齢のレベルに見合った人並みでしかない自我は、その内側に膨大な疲労感と脱力感、無力感を蓄積させるに至り、遂に不本意な言動を刻んでしまったのだ。

 彼らがそのとき存分に味わった感情の中枢には、「人間不信」としか呼べない絶望的な人間観が張り付いていたであろう。葛西洋子が裁判それ自身に対する絶望感を表現するとき、そこには彼女が徹底的に嘗め尽くした辛酸の経験が重厚に媒介されていたはずだ。少年たちが味わった人間不信の思いは、彼らの自我を相当程度歪めるのに充分であり過ぎたと思われる。

 そんな少年たちの絶望感を、浜田流二という男が中和化し、その自我を、それが本来あるべき場所に解き放ったのである。それこそが、浜田流二の最大の功績だった。私はそう考えている。

冨士茂子さんの「死後再審」
本作の主要な登場人物は、唐突に襲来してきた事件を通して、その人並みの自我を、しばしば曲線的に蛇行させながらも、その苛酷な時間の奥深い辺りで、まさに人間学における本質的な学習を果たしていったとも言えないか。

 では彼らが、そこで学習した人間学的な本質とは何だろうか。

 それは、人間には、その自我が正常に機能し得る臨界点というものがあり、その限界状況下で如何に踏ん張り切れるか、如何にその艱難(かんなん)な局面の中で、少しでも自らを有効に展開させていくか等々、それらの課題の絶望的とも思える困難さであろう。そしてそこに権力の壁が立ち塞がったときの、その絶望感の深さではなかったのだろうか。

 人間が権力にぶら下っていて、それに固執し続けるときの醜悪さを、彼らはまざまざと経験的に学習してしまったのである。それは権力が誘(いざな)う魔力かも知れないし、またその権力によって踊らされていくときの人間の、その圧倒的な脆弱さであるかも知れないであろう。

 権力の本質的な怖さを知った彼らは、自らが抱えた絶望感を越えて、その真実のさまを、自分の生き方の中で表現していこうと括ったのだろうか。
 
 ともあれ、彼らのそんな努力が、1985年という、戦後40年後の節目の年に、遂に再審法廷における無罪判決に結実したのである。それは事件が起きてから32年目の夏のことだった。
 
 最後に、私が最も印象に残ったラストシーンの言葉を引用する。それは、自殺を再び図ろうとした板根進の遺書を取り上げて、それを徳島に帰る列車の中で、浜田流二が黙読する描写である。

 浜田はそれを読んだ後、板根に向って力強く励ました。                       
 「な、坂根君。自殺するなんてアホやで。僕は好かんな、そんな弱い生き方。そりゃ、君が苦しんだのはよう分るよ。そやけどな、それだけのエネルギーが あったら、検察と戦ったらええのや。へこましたれ!第一な、君がもし死んでしもうたら、ウチの叔母は永久に助からんのやで」
 
 それに対して、板根は映像で初めて見せる、何か突き抜けたような笑顔できっぱりと答えたのである。
 
 「すんません。僕もう、絶対転ばんさかい」
 
 この言葉が、本稿の題名となった。

 そして本作は、この言葉を語った者と、それを語らせた者について描いた映像でもあったのだ。それが私の最終的把握である。

 そしてこの言葉こそが、決定的なカタルシスを拾えない本作の、その唯一で、しかしとても小さなカタルシスだったのである。それでもこの小さなカタルシスには、観る者にある種の、確かな安堵感を与える何かが含まれていた。             



かもめ食堂(荻上直子)


戦前に、その終末論によって国家権力から徹底的に弾圧された大本教との関連で、植芝盛平によって立ち上げられた合気道の本質は、相手を決して殺傷せず、どこまでも先に攻撃する相手の力を利用した護身武術である。

車椅子でも相手を倒す武術との出会いで、屈折した人生を変えていく青年を描いた、「AIKI アイキ」(2002年製作)のモデルとなった合気柔術こそ、 合気道のルーツと言える武道であるが、「合気とは、相手を受け入れることです」と言い放った師範の言葉の中に、相手の攻撃を利用してそれを返していく、「後の先」(ごのせん)という合気道の基本スタンスがあると言えるだろう。言わば、合気道とは、「ひたすら待機する武術」であるのかも知れない。

 この「武術」という言葉を、「食堂」という言葉に変えると、サチエという名の、本作の「ミニサイズのスーパーウーマン」のスローライフ人生に重なるのではないか。

サチエは、北欧ヘルシンキ市街の、誰もいない「かもめ食堂」というカフェ&レストランの中で、完璧な準備をしながら一貫して待機し続けるのだ。

 こんな会話があった。

 客の来ない店を宣伝するために、ヘルシンキのガイドブックに載せることを提案したミドリに対して、「スローテンポのスーパーウーマン」は明瞭に答えたのである。

 「毎日まじめにやってれば、そのうちお客さんも来るようになりますよ。それでもダメなら、そのときは、そのとき。止めちゃいます」

 彼女は覚悟を括っているのだ。しかも「逃避拒絶」という意味合いではなく、どこまでも自分サイズの人生のテンポによって、「ダメなら止めちゃいます」と言い切れるほどに、腹を括っているのである。

 毎日欠かさない「膝行」(しっこう=膝歩き)という合気道の基本鍛練や、時々、誰もいない市内のプールで遊泳する「マイスポーツ」によって、堅固な「防衛体力」(健康を維持するための基礎
体力)を形成し、自分が食べたい物を毎日しっかり食べて、昨日もそうであったような、自分に見合った律動で生きる秩序だった生活 をごく普通に送っているに過ぎないが、しかし、合気道精神に則ったこの規則正しい時間の構築こそ、彼女の「能動的待機」の人生の根幹を支えているように思え るのだ。

 「相手を受け入れること」に対する彼女の自然な振舞いは、その相手と別れる事態になっても、相手を自分の下に留める未練の感情を全く見せないのである。

 「ずっと同じままではいられないものですよね。人は皆、変わっていくものですから」

 この言葉は、空港内で自分の荷物が見つからないで、同様に「待機」の時間を持て余していたマサコが、偶然の縁を持ったサチエらと別れるに至った際に、既に相棒同然の縁を持ったミドリに返した言葉。

 「私がいなくなっても淋しくないですか」と、淋しさを隠し切れないミドリは、「いい感じで、変わっていくといいですね」と反応する以外になかったのである。

 「大丈夫、多分・・・」

 これが、サチエの一言。それ以上、この一件に何の反応もすることはなかったのである。彼女は「距離の達人」でもあったのだ。

「距離の達人」の強さは、逆境下にあっても、基本的に一人で生きていくことを前提に、人生を構築できるほどの「胆力」を持ち得る強さである。

合気道で鍛えた胆力で、どんな事態にも合わせて、慌てず、騒がず、たじろがず、閑古鳥が鳴く日々にも泰然として、この「かもめ食堂」の「オーナー」は、最初の客であるという理由によって、日本贔屓(びいき)のフィンランド青年に平気で無料のコーヒーをサービスしてしまうのだ。

 そんな彼女に、5人の登場人物が、彼女自身の「距離感」を決して壊すことなく絡んでいく。

 「ガッチャマン」の歌詞を教えてもらったミドリ、両親の看護を務め終え、初めて人生の解放感を手にしたに違いないマサコ。この二人が最も主人公の「距離」に最近接するが、そのモチーフには明瞭な差異があった。

 ここでは、サチエの泰然自若さが全開する、単身、フィンランドにやって来たミドリとの出会いについてのみ書いてみよう。

サチエが「ガッチャマン」の歌詞を知るために入った本屋で、「ムーミン谷の夏」を読んでいた女性の存在が眼に留まって、サチエは思い切って歌詞の内容を尋ねるシーンがあった。その女性こそミドリだったが、「ガッチャマン」の歌詞を完璧に覚えていたサチエを前に、自らフィンランド行きのモチーフを語った後、 彼女は初対面のサチエに少し心を開いたのである。

 「来てやらない訳にはいかなかったのです。どうしても・・・」とミドリ。
 「そりゃ、どうしてものときはどうしてもです」とサチエ。
 「ですよね・・・」とミドリ。
 「来てやりましたか」とサチエ。
 「ハイ」とミドリ。
 「ようこそ、いらっしゃいました」とサチエ。

この会話が、私の中で、映像を通して最も印象に残る言葉になった。涙が出そうにもなった。見事であるという外になかったのだ。

 「来てやらない訳にはいかなかった」というミドリの決定力のある言葉に対して、サチエもまた、「どうしてものときはどうしてもです」と反応したのである。そのような言葉を語らせる女がいて、それを凛と語る女がいたということ、それに尽きるだろう。その泰然さこそ、本作の主人公の真骨頂であった。

どこの国でも、どんな人でも、それぞれに人並みに持ち得る辛さを持つのが普通である、という把握が作り手の中にあると思われる。

 夫に逃げられたフィンランドの中年主婦は、日本の古来から伝わる「呪いの人形」の魔術を習って、それを実行するが、何とこの魔術は、夫の帰宅という「愛の魔術」に変容するというメッセージがそこにあった。

 コーヒーマシーンを取り戻した謎の男も、一切その経緯を語らないが、「かもめ食堂」を訪ねる前のネガティブな心境から幾分は解き放たれたという印象を残して、黙々と去っていったのである。

 そして興味深いのは、この男が美味しいコーヒーを作る魔術をサチエに伝授するが、「受容の達人」である彼女が、男からの受け売りである「コピ・ルアック」という言葉の魔術を駆使することで、本当に美味しいコーヒーが立てられるという落ちまで付いてくるのである。

 要するに、二つの魔術の描写に共通するのは、いずれも「現状を好転させる自己催眠」であるということだ。本作は、「現状を好転させる自己催眠」としての、「魔術」についての物語でもあった。

「魔術」に関して、こんな描写もあった。

 今夜も又、「膝行」を欠かさない女が、そこにいる。それを見て感銘を受けたミドリは、サチエに教示を求めていた。

 「力を抜いて、体の中心を呼吸をします。自然の気と自分の気を合わせるから合気道というんですよ。大切なのは体の真ん中。フゥー。ハイ、右。左。右・・・」

 「膝行」を教示するサチエが、「シナモンロール」を作ることをミドリに提案したのは、まさにその時だった。「膝行」という合気道の基本運動は、主体自身の内側に「余裕」を作り出す「魔術」なのである。「心の余裕」の形成こそ、合気道の基本精神であるらしい。ともあれ、「シナモンロール」のメニューの追加は、ものの見事に成功したのである。その芳しい臭いに誘われて、外から訝(いぶか)しげに眺めていただけの、3人の中年主婦が入店して来たのである。

それが全ての始まりとなって、「能動待機者」の女の店は、自らが待機しただけの報酬を受けるに至ったが、彼女の「得意泰然、失意淡然」(得意のときは騒がず、失意のときは淡々としている態度)の心境に全く変化が見られなかった。

 「いいわね。やりたくことをやって」とマサコ。
 「やりたくないことはやらないだけです」とサチエ。

 この一言の内に、彼女の「覚悟」と、それを支える「胆力」(恐怖支配力)の凄味が集約されていた。

 「『かごめ食堂』は、遂に満席になりました」

 誰もいないいつものプールで、フィンランド語で、ゆったりと立ち泳ぎしながら、噛みしめるように一言を放つ女が、そこにいた。

 そこだけは一貫して変えてはならないものを持ち、それを心的基盤に据えて日常を繋ぐ女の強さを、さりげなく描いた本作の求心力は、「相手を受け入れる合気柔術」の基本精神に則った「能動的待機」の人生の天晴れな振れ方にあった。


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